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漂う

by 幸坂かゆり

 

 

 その日、僕は川面に漂う小舟の中にいた。そこでひとり横たわり、失ってしまったあなたのことを考えていた。

 どうして止めなかったのだろう。後悔ばかりが頭の中を反芻する。

 あなたは一途に僕を愛し、僕もあなたを愛していた。それなのに現実はなんて酷い世界なのだろう。ただあなたが僕よりもほんの少し先に産まれたというだけなのに。

 

 許嫁なんて一体いつの時代の話なのか。いつの間にか僕もあなたも知らない内に他人のような親類の間でその話は進んでいた。僕らが知った時には既に僕は知らない誰かと婚姻関係になっていた。けれど僕は、どんなふうになろうと僕たちの愛は変わらないよ、と言った。あなたも、嬉しい、と微笑んで、そのまま僕らは抱き合った。まどろむ僕をそのままにしてあなたは、飲み物を持ってくるわ、と言って部屋を出た。

 それが最後だった。

 あなたの苦しみに気づかなかった僕は自身の間抜けさを激しく憎んだ。

 婚姻を知った時のあなたの諦めを含んだ憂いの、灰色の瞳を、今更ながら想い、悔やむ。忘れられない。あまりにも忘れられない。僕は一体あなたの何を見ていたのだろう。ただ愛に酔っていただけだったのか。あなたの純粋なこころは、僕らの愛を汚すのならば、いっそ、と考えていたと言うのに……。

 

 堪らなくなって僕は小舟から身を起こし、目を見開いた。

 眼前には見事な枝垂桜があり、その中の、ひときわ官能的な幹を持つ一本の枝垂桜に目が釘付けになった。その桜の枝はまるで僕のすべてを知っているかのように僕に向かって伸びて、しなだれかかった。頬に触れる甘い香り。僕は瞬時に理解する。あなただ。こころから愛するあなただ。僕は「何故……」と言いかけた。しかし、そんな僕の唇に封をするように、あなたはいちまい、花びらを押し当てた。その香りが僕を目眩に誘い、とても安らかな気持ちにさせてくれた。枝の愛撫に任せ、そのまま目を閉じる。

 

 やがて、枝が届かない場所まで小舟が進み、僕を撫でる枝の指が一本ずつ頬を離れ、ゆっくり遠のいて行くのが判った。目を開けると、その瞬間に僕の目は川面のように波打ち、景色が歪んだ。

 行かないで。

 行くのなら僕も一緒に……。

 そんな僕の遅すぎる執念をあなたは許さなかった。

 

 いいえ。

 あなたはもう違う方と縁を結んだのだから幸せにしてあげて。あなたも幸せになるのよ。

 そんなふうにこころの中にあなたの声が響いた。僕は桜の枝を掴んで離さなかったが、だめ、と言って、いやいやをするようにその枝をゆらりゆらりと振った。花びらがいちまい、またいちまいと僕の頬に落ちる。あなたの涙を含んだように花弁は湿っていた。

 

 僕は花びらを丁寧に指先に寄せて愛撫し、くちづけた。

 小舟から身を乗り出し、遠ざかる桜の木を見つめると、桜もそんな僕をただ見つめ、ゆらゆらと枝を揺らしながら見送ってくれた。

 

 

   あとがき

 

 

 ツイッターにて「あなた・桜・涙で文を作ると好みがわかる」と言うハッシュタグを見かけ、気持ちの動くままに風景を書き出しました。故に小舟に乗る「僕」と「枝垂桜」についてはおおまかな設定しか作っておりません。桜にはどこか謎めいたものが似合うと思い、どこか憑依されたようにこの短い文章を書きました。この後、残された「僕」がどうなっていくのか、それは読んで下さった方に委ねます。すべての皆さまに感謝致します。(令和三年二月七日)

     令和三年四月三〇日 推敲

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