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24時間の Je t’aime

by 幸坂かゆり

 がらんとした一人暮らしの部屋をビリーは眺める。

 ネクタイを緩め、仕事帰りに買ってきたビールと適当に選んだチキンやピザなどが入った袋を乱暴にテーブルの上に置いた。別段食欲もない。なぜこんな気持ちになるんだ。ビリーは一人暮らしを始めた日々を振り返った。

 一人暮らしのアパートに越したのは仕事の転勤がきっかけだった。しかし元々家事が苦手なのもあり、何もかも自分でやるというのがしんどくなってきて同僚に相談すると、割と気軽に家政婦事務所を利用しているという話を聞き、ビリーもそうしてみようと考えた。

 仕事仲間が利用している家政婦事務所に電話をかけると丁寧な対応で、伺います、と返事があった。それだけでひとまず安心した。ビリーの出した条件は、家事全般をきちんとこなす。時間を守る。その二点だけで当然の条件だろう。ビリーは休みの日を指定し、その日改めて家政婦を迎えることにした。

 休み当日、家政婦がやってきたらしい。何だかやたらと快活な階段を上る靴音だ。いや快活過ぎる。ドアを開けると、そこだけ陽だまりのように眩しいものがあり、思わず目を細めた。家政婦は、ひよこのような金髪の女性だった。そしてそのひよこ、基、女性はビリーの顔を見て「おー!」と声を上げた。けたたましいのは勘弁してくれ、と条件をつけるべきだった。

「ハリーじゃない! 何で? どうして教えてくれないのよ!」

 彼女はいきなりそう言うとビリーに抱きついてきた。

「君! 違う! 僕は生まれた時からビリーという名前だ!」

 しばらくしてから彼女は体を離した。

「あら、ホント。よく見たら違った。ごめんなさい。人違いなんて失礼よね。私は家政婦事務所から派遣されてきたハンナ。よろしくね」

「ああ……よろしく」

 しかし握手をするとハンナはずかずかと部屋に入って来た。

「あっ……君」

「名前で呼んでくれる? 大丈夫よ。家事は抜かりなくやるから安心して」

 そんな問題じゃない。ビリーは何だか面倒になりそうなこの女にビクついていた。しかし、この日の夕食すら疑惑の目で見ていたビリーだったが彼女の料理の腕はかなりのものだった。思わず「うまいっ!」と口に出してしまったビリーは、はっとしてハンナの顔を見た。

「ありがと。おいしいでしょう? こう言う仕事なんだし、色々と資格も持ってるわ。プロフェッショナルよ、私。腕は信じて欲しいわ」

「ああ、疑ってすまなかった」

 ハンナは腰までありそうなブロンドの髪をアップにして、それこそ目が覚めるような柄のフリルがひらひらした真っ赤なエプロンをしていて、豊満なバストが胸元からこぼれそうだった。そんな井出達で食事をする彼の目の前で頬杖をつくものだから目のやり場に困ってしまう。ハンナはキッチンの片付けを終えるとエプロンを外した。

「それじゃ帰るわ」

「ああ、お疲れ様」

 やれやれ。ドアが閉まるとハンナの鼻歌と弾むようなヒールの音が廊下に響いていた。その遠ざかる音を聴き、ビリーはどっと疲れた。

 次の日、時間をきちんと守ってハンナはやってきた。入れ違いにビリーは仕事に出かける所だった。

「……じゃ、よろしく頼むよ」

「まかせて。そのスーツ似合うわ。素敵よ。いってらっしゃい」

……まったく。一日に一回は赤面しなくてはいけないらしい。

 しかし、帰ってくると玄関に大きな荷物が置いてあり、ハンナがまだ部屋にいたので驚いた。

「まだ終わっていないのかい? あの荷物は何だ?」

「お帰りなさい、ビリー。あなたを待ってたの」

「何かあったのか?」

「一緒に暮らさない?」

 とんでもない提案だった。

「……君はハリーという男を捜しているんじゃないのか?」

「いやだ、友達よ。あなたが気に入っちゃったの。大丈夫よ、事務所には内緒にしておくから」

「何を言ってる!  僕はそんな関係を望んじゃいないし、お、女には困っていない」

 ちくしょう、言葉が一瞬詰まってしまった。

「あら。ハウスキーパーには困っているでしょう」

「変えてもらう」

 ハンナは意味ありげに笑うと、実はもう部屋を引き払ってきた、と恐ろしい現実を告げた。

「なんだって? 帰るところは?」

「ないわよ。ここしか」

「……事務所に連絡する」

 ビリーが電話を手にした。しかしハンナは電話に割り込むようにしてキスをしてきた。

「これも言える?」

「悪知恵の働く頭だな。どう言うつもりだ」

「だから、あなたが好きなの。ビリー」

「……昨日、君に会ったばかりだが」

「ひとめぼれよ。あなたも経験あるでしょ?」

「ない」

「残念。それより夕食作ったから先に食べて」

「君の今夜の部屋の方が大事だ」

「だって、荷物持ってきちゃった」

「あのでかい荷物がそれか」

「そ」

 ハンナはキッチンに向かい、美味しそうな匂いのする鍋を温め始めた。その匂いに思わずビリーの腹の虫が鳴った。ハンナはまずビリーにスープを差し出した。

「……とりあえず今夜は泊まりなさい。明日からのことは考えておくんだぞ」

「だめよ。ここにいる」

 ビリーは仏頂面でスープを一口啜ると、やはりどう考えても彼好みの味で微笑んでしまう。

「いいのね? その顔は」

 腕組をしてにやにやしてハンナが言ったので、はっとした。

「この後、おいしいおいしいメインディッシュも控えているんだから」

「……ルームシェアという形にしよう。ただし、本当に内緒にするんだぞ」

「もちろん!」

 食べ物に釣られるなんて……。

 ビリーは心の中で自分の意志の弱さに舌打ちをした。その夜から無邪気なハンナはビリーのベッドを独占してしまった。ハンナはすっかり女房気取りだったが、天真爛漫な彼女はそれを嫌味に感じさせなかった。その日からビリーの口癖は「早くいい男を見つけなさい」になり、ハンナは反対に「そろそろ愛してるって認めたら?」などと返して来る始末だった。どちらかと言えば堅物で真面目なビリーの生活はハンナのおかげでうるさいくらい華やかな笑い声が絶えなかった。そんな生活がひと月ふた月と流れていった。

 ある日、ふたりで買い物に行った先でハリーという男性に会った。初めて会った時、ハンナがビリーと間違えた人物だ。ハンナは驚いて彼に話しかけた。彼女がとても楽しそうに見えた。顔を見ると確かに自分と似ている。しかし雰囲気はまったく違った。着ているものもヘアスタイルも。何より快活で暗い自分とは大違いだった。あの日ハンナは彼と自分を間違えて抱きついたのだ。良い気分はしなかった。元気がないまま部屋に戻った。

「どうしたの? また何かで落ち込んでるの?」

「……いい男を見つけなさい」

「またその話?」

「君はハリーを探していたんだろう?」

 ハンナは上着を脱ぐ手を止めビリーの方を振り返った。

「やっと出会えて良かったじゃないか。君は優しいし明るい。幸せにしたいと願う男はたくさんいるはずだ。僕だってそう思ってた。だけれどさっき会った男とあんなに明るく楽しそうにして。僕はあの男に会うまでの繋ぎだったんだろう。きっとあの男と一緒になった方が幸せだろう」

 ビリーはすっかり自信を失ってしまった。ハンナは真剣なまなざしをビリーに向けた。

「……ビリー」

 ビリーはハンナの方を向いた。

「あなたはいつもそうね。拘りすぎているのよ。ルームシェアで始まった関係の時に、いつかは好きになってくれると思ってた。ううん、もう好きになってくれたって何度も感じてたわ。だってあなた、いつも優しかったから。私はとても幸せだったのよ。でも違ったのね。だめだったのね、私」

「だから君は……」

「なに?」

 ハリーとやらと、と言おうとしたが沈黙が流れた。

「さよなら、なんでしょう?」

 やはりビリーは黙り込んでいた。

「自分から切り出しておいてさよならも言ってくれないの?」

 ハンナは上着を着直すと、財布だけをバッグに入れた。

「バカね……」

 ハンナは力なく玄関まで歩き、ドアに手をかけた。

「お手数をかけるけど私の荷物は捨てて。何も残さなくていいわ。あなたとの思い出になるものは悲しくなるだけだからいらない」

 ハンナはドアを後ろ手にドアをゆっくり閉じた。

 情けないことにビリーは何も言い返すことが出来なかった。初めて会った日に聞こえたヒールの音はその日まるで逃げるように悲しく響いた。こうしてふたりの秘密の日々は終わりを告げた。これでいいじゃないか。元々はこれを望んでいたのだから。最初はやかましい生活はたくさんだったが、実際の彼女は素晴らしい女性だったのだし、このままじゃただハウスキーピングを彼女に甘えるだけになってしまう。彼女は幸せにしてくれる男と出会うべきだ……。

 そんな物思いに耽っていたビリーは我に返り、買ってきたビールを開け、冷めてしまったピザを温め直すこともせずにかぶりついた。なぜ急に思い出したのだろう。ハンナとのルームシェアと言う同棲を解消してからもう既に数年経っていると言うのに。ふとビールを見ていたらハンナがいた頃は「かわいいからこれ」などと言っては、彼女のお好みのグラスに勝手に注がれたのを思い出した。今は缶のままだ。味なんてしなかった。酔えればいい。それにハンナだって今はいい男に出会ってベッドを共にしているかも知れない……。そう考えた時、ビリーは思わず缶をテーブルに乱暴に置いた。何てことだ。おれはハンナを愛している……! 今頃言ったって遅いのに。

 拘りすぎているのよ。

 ハンナの最後の言葉が脳裏に浮かぶ。言う通りだ。彼女にはもちろん幸せになってもらいたい。けれど自分だって幸せが欲しい。ハンナから受け取る幸せが。無駄かも知れないと思いながらあの時彼女がいた家政婦事務所や、ふたりで行ったカフェなど思いつくところに電話を入れた。見つかるはずはなかった。ビリーの部屋から去った次の日、彼女は家政婦事務所を退職していた。

 ハンナは確かに先走ってしまう性格だったかもしれない。けれど自分はどうだ。こんなに後ろばかり向いている。今日は諦めた。もう遅い時間だ。足下には数えきれないくらいの空き缶が転がっていて歩くたびにぶつかり、やかましくガラガラと音を立てた。なんて無様なんだ。こんな奴一生ひとりでいるのが似合ってる。その時、呼び鈴が鳴った。

 まさか……。

 ふらついた足で玄関に辿り着き、酔いのせいでなかなか外せないチェーンに手こずりながらも何とかドアを開けた。そこには愛してやまないハンナが立っていた。

「どうして……」

 ビリーは夢かと思い、何度も瞬きをした。

「こっちの台詞よ。色んな所から電話が来たから」

「ごめん……」

「あなたが……切羽詰っているようだって聞いたの」

「それで……?」

「私、忘れ物と称してここに置いて行ったものがあるの。ふたつあるうちのひとつよ。ひとつは私が今も持ってるわ」

 ビリーはきょとんとした顔をハンナに向けた。

「でもそれを言う前に聴かせて。なぜ私を探したの?」

「それは……」

 ビリーは必死に言葉を考えていた。

「それは……」

「それは?」

 ハンナが首を傾げて優しい声で先を促した。

「僕がバカだったからだ」

「え?」

「ハンナを手放した僕が……とんでもなく間抜けだと気づいたから」

 こんな話をしているというのに見つめあうことすらできない。そんな臆病なビリーが真剣に言葉を選んでいた。ハンナはそんなビリーを見つめた。

「私が置いて行ったものはね」

「うん」

「あなたを愛する心」

「……それは、ここにあるの?」

「あるわ。ここの部屋用にひとつ、出かける時用にひとつ、いつも持ってたの。いつでもあなたを感じられるようにね。でも部屋用の心はあなたと議論になったあの日に置き忘れちゃったの。もしもあなたがもう一度私を受け容れてくれたらずっと置きっぱなしにする。でももうあなたが私に用がないって言うなら、強引に、破くように持っていく。跡形も残さない……」

 ハンナの唇が震えていた。もうこれ以上プライドやら自信のなさなんて構っていられない。ハンナにこれほど辛そうな顔をさせてしまった。ビリーは胸を打ち砕かれたように後悔した。ビリーがそう思った時、自然と言葉が出て来た。

「ハンナ、愛してる」

 その言葉を聞いた瞬間、ハンナはビリーの首筋に思い切り抱きついた。熱い抱擁でビリーは顎に打撃を受けたが、このくらい罰だろうと考えた。

「待ってた。ずっと待ってた。私、気が短いのよ、こんなに待たせるなんて悪い子!」

「ここまで待ってくれていたら気が短くなんかないよ。君がいなくちゃ僕は悪い子のままだ」

 思わずハンナの目が驚いて丸くなる。その表情は本当に愛らしいひよこのようで、ついビリーは吹き出した。

「あら、なによ」

「素敵なトラブルメーカーが戻ってきて嬉しいんだ」

「もっとトラブル起こすわよ! 待たせた罰!」

 そう言ってビリーとハンナは心からのキスを交わした。ひと目でビリーに恋をしたハンナはあの日持ってきた荷物の中に既に「恋」というトラブルを入れていたのかも知れない。

《 Fin 》

2005年4月25日

解説

この物語が元になった大澤さんの曲は「ビリーの災難」という軽快な曲です。歌詞はヒッチコック監督の「ハリーの災難」をもじったものでしょう。私は更にもじって、という頭がなかったのでまったく違うタイトルになりました。ただこの頃の物語を読んでいて現在気になるのは登場人物の会話の多さです。シナリオのように会話だらけなのに描写がない。下手だったな、と痛感しています。でもキュートなお話だけど♪

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