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Dolphin

by 幸坂かゆり

 ツツが初めて彼を見たのは彼女が通う学校へ行く道の途中だった。

 アパートの一階の窓辺に可愛らしい鉢植えがあったから、つい近くまで行ってしまったのだけど薄いカーテンに阻まれていたせいでツツには部屋の中が見えなかった。

 ただ、一瞬だけ吹いた風のおかげで人影が見えた。美しく輪郭の整った男性。ツツが見たのはその男性がパンにバターを塗ろうとして床に落として慌てていた所だった。その拗ねた唇が可愛くて、その瞬間、十歳以上は年上であるだろう彼にツツは恋をした。

 その日から、必ず彼の部屋を覗くのが習慣になった。友達にも話したことがあったが友達は年上の彼を認めようとしなかったため、誰にも話さなくなった。

 授業中に提案が浮かんだ。帰りに「こんにちは」って声をかけてみよう。ツツはこの日、授業が終わるとすぐに校舎から飛び出して、お気に入りのパン屋さんに寄ってお気に入りのいくつかの種類のパンを買い、彼の部屋の窓辺に向かった。

 いつものように彼はいた。レコードを聴いていて気持ち良さそうにしていた。いつ話しかけようか、とタイミングを計っているのと何の曲がかかっているのか気になり、いつもより側に逝きすぎて窓に頭をぶつけて声を出してしまった。はっと彼は振り返った。ツツはしまった! と思ったが彼は素早くドアから出て来た。しかしツツは逃げるよりも、もっと間近で顔を見たいと言う願望の方が強かった。彼は怪訝そうな顔をしていた。

「こんにちは!」

 ツツは元気よく挨拶した。

「あ……こんにちは」

 戸惑って反射的に彼も答えたが、怪訝そうな顔に戻った。

「君は、いつもここを通って通学して行く子だよね?」

 気づかれていたことにツツは驚いた。

「はい」

「こんなところで何してたの?」

「あの……何の曲を聴いているのかなって」

 ツツの言葉に彼はほんのり笑顔になった。その一言でツツは憧れていた彼の部屋に入ることができた。

 その広い部屋はいい香りがした。壁は白かったがテレビやソファーは色とりどりのレトロなデザインだったので華やかな印象で、もっと細かく見るとダーツが壁にかけてあったり、クラシックギターやピアノが置いてあったり、好奇心旺盛な彼の一面が覗けるようだった。

 彼が淹れてくれたコーヒーの味はツツには大人向け過ぎたようだが、そこで思い出してパン屋さんの紙袋をがさがさと取り出した。

「食べよう! コーヒーに合うよ」

「サンキュ」

 彼は喜んでその袋の中から大きなクロワッサンを受け取った。しばらくふたりでパンを食べ、コーヒーを楽しみながら流れる音に身を委ねていた。彼が曲を口ずさむ。声は、誰とでも融け合えるような素晴らしいハスキーボイスだった。

「何ていう曲?」

 彼はレコードのジャケットをツツに見せてくれた。

「『Ooh Child』ってタイトル。バレリー・カーターっていうシンガーが歌ってる。知ってる?」

「知らないけどすごく素敵」

 彼は自分が賞賛されたかのように嬉しそうに微笑んだ。ツツはまたしても見惚れてしまった。

 彼もツツを見る。彼女はとても細くて小さい。少々サイズが大きいと思われる制服を着ているせいか、袖口やミニスカートから覗く手足が棒のようだ。風に吹かれる髪型はショートカットのくせ毛で彼とよく似ていた。しかし彼女の雰囲気は外国映画に出てくる男の子のように無国籍に映った。

 ツツが間近で見つめる彼は表情が豊かでもっと美しいと思った。上のボタンをふたつほど外した黒いシャツに穿き慣れたジーンズ。そんな普通の格好の男性なのに『美しい』なんて言葉を使ってしまうほど彼のラフさは優美だった。よく似合う。コーヒーカップを持ち上げる指も、敏捷で、しなやかで、海で泳ぐ生き物を思わせた。ふたりはいい気分で喋っていたが、ふと彼が照明をつけた時、かなり時間が経っていることに気づき、ツツは驚いた。

「どうしよう! こんなに暗い!」

「怒られる?」

「違うの! 暗いの怖いの!」

 その言葉に彼はふっと笑った。

「大丈夫、帰りは送るよ。それとも泊まる?」

 いたずらな目付きで彼は言ってみたが、ツツは何の迷いもなく「泊まる」と言った。

「……あ、そう? じゃ、車を出さないからおれは酒を飲むよ。君は何がいい?」

「カフェオレ!」

 あまりの無邪気さに笑ってしまう。ふたりは新ためて酒とカフェオレで乾杯した。

 その後、「君も好きに寝ていいぜ」と言って彼はベッドに横になった。

「じゃ、一緒に寝る」

 言うが早いか、ツツは制服を脱ぐと下着姿になって彼の隣に潜りこんだ。その大胆な行動に驚いたが、あっという間に眠りこけていた。思えばお喋りに夢中だったが午前になっていた。眠かった彼女に気づかなかったことを彼は独り言で詫びた。

 次の日、ツツより早く起きていた彼は「制服じゃ堅苦しいから」と言って自分の服を山ほど出してきてくれた。ツツは彼が昨日着ていた黒いシャツを借りた。大きくてワンピースのようになったが可愛くて彼は目を細めた。ふたりは朝食に目玉焼きとベーコンを焼いた。それからテレビを見て笑ったりしていたが彼があくびをしてベッドに横になった。昨夜、ツツが可愛くて寝顔を見ていた彼は寝不足気味なのだった。

「眠っちゃやだ!」

 ツツは突然、彼の襟元にかぶりつくように抱きついてきた。その不意の重さに驚いたが、そのままツツを胸元に抱き寄せた。くせっ毛が柔らかい。

「猫みたいだな、君は」

 ふたりはサンドイッチのように足を絡ませながら話をした。ふとテレビの画像が青色を映し出し、壁が揺らめいて見えた。

「さしずめあなたはイルカってとこね」

「イルカ? おれが?」

「うん。自由って感じで。大人ってみんなこんなふうに話を聞いてくれるの?」

「うーん。おれは大人じゃないなあ」

「じゃあ、なに?」

「イルカ」

 ふたりは声を上げて笑った。彼がサイドテーブルの上にある煙草に手を伸ばした時、昨日は気づかなかったが、そこにシルバーのフォトフレームを見つけた。それを手に取ってツツは話を続けた。

「……そうね。あなた大人だけど大人じゃない。大人ならこんなふうに私を扱ってくれないわ。少女の夢ですべてを片付けて、きっと私を追い返したわ」

 彼はフォトフレームとそれを持つ小さな手を見てなぜだか胸が痛んだ。

「この写真の人、恋人?」

 フォトフレームにはきれいな女性が写っていた。

「うん」

 彼は嘘をつかなかった。ツツはフォトフレームを元の場所に戻して満面の笑顔に変えて言った。

「ねえ、お散歩に行こう。お花が一杯咲いてるとこに」

 しかし、ふたりが目指す「お花が咲く場所」に行くため、混雑した街の中を歩かなくてはならなくて彼はすっかり疲れてしまい、目的地の公園に着いた時にはすぐにその辺のベンチに座った。

「まったく。どこから人が出てくるんだ。こんなに」

 人混みにうんざりしたように彼は髪をかき上げた。

 ツツが飲み物を買おうとしてコインパースのジッパーを開けると隙間からコインが一枚逃げ出すように転がった。すると彼は急にいたずらっこのような瞳になってツツの背を軽く叩き、追いかけよう! と提案した。さっきベンチに座っていたはずなのにもうコインを追いかけている。やはり滑らかに動くイルカに似ている、とツツは思った。

 まっすぐに伸びた道は緩やかな下り坂になっていて逃げるコインはなかなか手強い。掴んだと思ったらツツは足先で思わずコインを蹴ってしまい、また追いかける羽目になった。全然、私は猫なんかじゃないわ、とツツは彼の喩えた昨日の言葉を反芻した。坂の中間あたりでやっとコインはツツの手の中に納まった。その手の上に彼がごろりと大の字になった。彼もツツも大笑いだった。

「コイン、あなたがよけないと取れないよ」

「待って。疲れた」

 整わない息に掠れた声が風のように混じった。ツツは自分が捕まえなければまだ転がっていたであろうコインの未知の行く先であった坂道の下を見つめた。

「コインがあっちまで転がってたら……」

「うん」

 言葉を途中で止めて寝転がる彼の唇にツツは自分の唇を押し付けようとした。彼は顔を横にずらした。

「だめ」

「だめじゃない」

 彼は首を横に振る。小さな押し問答の末、さすがにツツが負けた。彼には恋人がいるんだった。しかし彼はツツの小さくて柔らかな唇にそっと触れた。ツツも彼の唇に触れてみた。ふっくらとして弾力があった。

「そろそろ帰るわ」

 名残惜しかったが昨日一晩帰らなかった可愛い「不良娘」はそう言って笑顔で手を振り、坂道で去った。叶わない恋は捕まってしまったコインのせいにしたようだ。彼はそのまま部屋に戻ったがツツの制服がハンガーにかけっぱなしになっていた。その忘れ物が妙に可笑しくてひとりで吹き出した。

 次の日、ツツはワンピースを着て学校の鞄を持って彼の部屋の窓を叩いた。

「制服、忘れちゃった」

「うん。かなり笑わせてもらったよ」

「昨日の去り方、かっこいい女の人になったつもりだったのになあ」

 そう言いながらまたふたりは笑う。どうやらツツは彼の黒いシャツのことはお忘れのようだ。

「ここで着替えて行っていいよ」

「ありがと」

 ツツは彼の部屋に飛び込んだ。

 淡いあこがれは消えたけれど彼女にジェラシーなんて起こらなかった。ツツはいつか彼の恋人にも会ってみたいと思う。なぜなら写真に写る彼女は大層な美人だったからだ。憧れる。彼女は普段どんな仕草をするのか、どんなふうに彼の目を見つめるのか、ファインダー越しで覗くように見てみたい。ツツの好奇心という願い事。

 ツツが制服姿で軽やかに走って行く後ろ姿を見ているとやはり猫のように思えた。やんちゃなのにおませ。彼女がこれからもそんなキラキラした瞳で色んなことを吸収して素敵なひとに成長するのを見守りたい、と保護者のようなことを考えてしまった。

「人生、どこで出会いがあるのかわからないな……」

 彼が独り言を呟いていると、彼が座る椅子の背中から細い腕にいきなり羽交い絞めにされた。

「はーい、ミスター・ドルフィン」

 バスルームから出てきたばかりでバスタオル1枚だけで顔を出したその女性はフォトフレームに写っていた顔だ。

「知ってたの……?」

「当然。油断も隙もないんだから。一部始終見ててあげたわよ」

「怒った?」

 彼女の顔を窺う様子で彼は尋ねた。

「あんまり素敵なカップルだったから妬けちゃった」

「でも君に会わなかったらイルカなんて絶対言われなかった」

「そうなの?」

「うん。おれに自由の心地良さを教えてくれた人だよ」

「私みたいな女なんていっぱいいるわよ」

「でもおれが魅かれたのは君だから……」

 彼は彼女の腰を抱き寄せてキスをする。心の中では、ツツよりも彼女の方が少しいい子だけど、と思いながら。

《 Fin 》

2004年10月7日

解説

大澤誉志幸さんのキュートな曲「キッスはそこまで」を聴いて、恋愛ではないけれど仲よくなる可愛いカップルが書きたくなりました。この曲は初めて聴いた時、これほど突き抜けた爽やかな色気を放つ音楽がこの世にあるんだ! と思うくらい衝撃を受けました。まさにツツそのもののように大澤さんに対して好奇心旺盛の中学生でした。最後に登場する彼の恋人も良い感じのストッパーの役割かなと思っています。

まあ……2004年に書いたものなのでここはひとつ……はい。

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