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Only My Love

by 幸坂かゆり

    口惜しい。雛子は思った。

 定期的に薬剤の点滴を受けなくてはならない難病を抱える彼女は、時々外出はできるものの常に検査を受けなければならないため、ずっと入院生活日々を送っていた。入院生活が不満なんじゃない。

 月に1度、いつもとは違う薬剤を点滴する日と、何ヶ月も前から楽しみにしていた雛子の大好きなアーティストのライブが重なってしまったのが理由だ。絶対に行くと決め、既にチケットも購入している。遠方は無理だけど雛子の住む町に来てくれるのなら絶対に行くと決心していた愛しいひと。

    始まりは本当に雛子が幼い頃で、その時はただ夢中で彼の音楽を聴いていたけれど、それはいつの間にか20年を越え、もう生活であり、日常であり、治療が辛い時、ひっそりと涙を流す時に声で慰めてくれるただ一人の存在であり、雛子の愛しいひとなのだ。雛子は考える。点滴はじっとしているだけ。それに会場は病院から歩いて行ける距離……。雛子はその日のために入念な計画を立て始めた。

 ライブ当日がやってきた。雛子は腕に点滴を着けられた。

「終わりそうになったら呼んでくださいね」と看護師が去るのを確認し、大急ぎでメイクをして髪を整えた。洋服も点滴針をつけていたら着替えられないからあらかじめ朝に着替えておいた。ずっと用意していたお気に入りの少し派手な柄のひらひらのスカート。ピンヒールの靴。絶対この日にデビューさせると決めていた洋服たち。パジャマなんかで会いに行けない。愛しいあのひとに。メイクの仕上げは顔色をよく見せるようにグロスを少しだけ頬に伸ばした。一度顔全体を見てからにっこり笑ってコンパクトの蓋をぱちん、と閉じた。院内の患者にしては派手なその姿でトイレに行く振りをして、病院の裏口からそっと抜け出した。見事、成功。

 ライブ会場には既に人だかりができていたが大丈夫。チケットはしっかり持ってる。がらがらと点滴を片手に堂々と歩く雛子の姿に周りの人間は驚いていた。チケットを切るスタッフも一瞬手を止めたが雛子は何も気にせず、笑顔で半券を受け取ると会場に入った。料理も楽しめるそのライブ会場は食欲をそそる香草の香りに溢れ、そこかしこの席で美味しそうな肉料理や飲み物を片手に観客たちが笑顔で座っている。思わず雛子のお腹が鳴る。けれどここは我慢してソフトドリンクだけをオーダーして席に着いた。

 開演時間。愛しいあのひとがステージに出てきた。すぐに大歓声に包まれた。雛子の席は端だけれど点滴の液体が反射をするためかなり目立ち、アーティストである恋しいひとは目をぱちぱちさせて何度か雛子に目をやった。雛子自身は「目が合った!」と内心大喜びしていた。

 彼はステージ中央の椅子に座り、軽くギターを鳴らし、雛子の大好きな曲を歌い出す。その瞬間、雛子を含むすべての観客が彼の独特のハスキーボイスに聴き入った。魔法だ。うっとりとしながらいつも思う。ステージはヒートアップしてくる。みんなのノリも激しくなり、雛子の前列に座る観客が席を立ったので彼の姿が見えなくなった。雛子も点滴台を倒さないよう気をつけながら立ち上がった。それからは点滴すら忘れてしまうほど応援した。そこから続けざまにスピード感のある曲が続く。そしてバラード。いつも部屋でひとりヘッドフォン越しに聴いていたその曲を、今目の前であのひとが歌っている。その姿を見るだけで蕩けそうにせつなくなる。くらくらと目眩がしてくる。

 目眩? ふと思い出して腕時計を見た。1時間半。ちょうどバラードがラストだったようでアンコールにさしかかり、あのひとが奥に引っ込んだ。その時点滴の液が切れ、血液が逆流し始めた。しまった。雛子は慌てて席を立った。でも、と思う。

 もう一度だけあのひとの顔が見たい。アンコールで出てきた時の上気したその顔をひと目だけでも。ファンの熱い拍手とあのひとを呼ぶ声援の中、息が段々苦しくなってきた。雛子は少しずつ少しずつ後ずさり、出口に近づいていった。後ろ髪を引かれるけれど想いを振り切って会場を出るドアに片手をかけた瞬間、あのひとが出てきた。雛子は嬉しくて満面の笑みを浮かべた。ドア付近に立つ雛子を愛しいあのひとが確かに見てくれた。雛子は投げキッスを残して会場を出た。タイム・リミット。

 外は会場の熱気と打って変わって強い風が吹き、点滴液のなくなった台が風にぐらぐらと揺れる。腕が痛い。胸も苦しい。お上品に歩いていられないから雛子は、今夜だけでいいの。ありがとう、とピンヒールにお礼を言って脱ぎ捨てた。もう少し、あともう少し。神様、病人だからって甘く見ないでよ。そう心の中で呪文のように繰り返し、道行く人をよけさせ、がつがつと歩いた。やっと病院に着いた時、入り口では探していたらしい看護師数人が雛子を待っていた。まず最初は怒号だった。怒られるのは仕方ないと雛子自身もわかっている。ここは低姿勢で謝るしかない。ごめんなさい。謝りながら雛子は急激に目の前が真っ白になり、意識を失った。

 次の日。回復した雛子は医師からたっぷりと大目玉をくらった。小さな声で「ごめんなさい」と、しおらしく謝ってはいたが心の中は愛しいあのひとの歌声がまだ耳に焼きついていて会場の大きな音響のせいで少し耳が塞がって聴こえるような感覚も幸せで、下を向き口角が上がってしまう顔を抑えるのに必死だった。おかげでしばらく体調が良い日でも謹慎という意味で外出禁止にはなったけれど、そのことだって覚悟していた。

 そんなことより、ああ、あの曲。MCの時「ライブでは初めて歌うんだ」と言っていたあの曲は特別に大好きで大切な曲だった。変化のない毎日の中でどれだけその曲に助けてもらったことだろう。だからつい嬉しくて飛び跳ねてしまった。最初は不審そうな目で見ていた近くのファンの女の子も同じ気持ちだったみたいで思わず顔を合わせて微笑んだ。その出来事も入院生活の長い雛子にとっては嬉しい思い出になった。しかし現実では心臓が苦しくてベッドに横になってからもなかなか呼吸が落ち着かない。自分のせいだから誰にも文句は言えないけれど。するといつも話をする仲の良い看護師が顔を出した。

「雛ちゃん! だめじゃないの、無理しちゃ」

「……だって、どうしても会いたかったんだもの」

「みんなあなたを心配してたのよ!」

「本当にごめんなさい! 充分反省してるの。先生からも看護師さんからもたくさん言われたわ」

「本当に反省してる?」

「してます。苦しいもの」

「そう、じゃあこれ」

 もったいぶった会話の後、看護師が渡してくれたもの。それは愛しいあのひとからのお見舞いの手紙と小さなブーケだった。なぜここがわかったのだろう。すると看護師は言う。

「雛ちゃん、ライブ会場を出る時に診察券を落としていったそうよ。それで会場の人が病院に電話をかけてきてくれたの。それで雛子ちゃんのいる場所がわかったのよ」

 そして後日、いや、今日、愛しいあのひとはその診察券を頼りに病院までこの手紙とブーケを届けに来てくれたらしい。

「あのひとが来てくれたの!?」

「本人なのかな? あんまりテレビに出ない人だから私、顔を知らないのよ」

「どんなひとだった? 髪型は?」

「帽子を被っていたから見えなかったわ」

 雛子はため息をついてベッドに倒れ込む。

「あ、でも」

 雛子は半べそをかいた顔で看護師を見た。

「とっても掠れた声のひとだったわ」

 あのひとだ。雛子は感激のあまり涙が溢れ、余計に心拍数が上がって胸を押さえ、前のめりになってしまった。

「ああ! 興奮しないで! 心臓に負担がかかるから」

「ご、ごめんなさい。もう大丈夫です……」

 看護師が慌てて背中をさすってくれた。雛子はパジャマの袖で涙を拭って何とか心を落ち着かせた。その後、体調が落ち着いてから看護師が病室を出た。その背中を見送ってからそっとブーケと一緒に入っていた封筒に入った薄いブルーの便箋を取り出した。

 おてんばなシンデレラへ

 来てくれてありがとう

 投げキッス、ちゃんと受け止めたよ

 今は無理しないで休んでください

 シンプルな言葉。でもあのひとの確かな手書きの文字。長年ファンをやっていたら愛しいひとの字くらいわかる。嬉しくて思わず手紙を抱きしめてからもう一度読み返す。え? なんですって? あたしがおてんば? 聞き捨てならない。そう言いながらもその手紙に唇を寄せた。また行くわ。あなたの歌を聴きに。その時は点滴はなしでタクシーに乗って優雅に。そして美味しそうなお料理も注文するの。新たに夢を見ながら雛子はブーケにも唇を寄せて、あのひとがくれた花の香りの中で束の間の眠りについた。

《 Fin 》

2006年7月14日 Photo model / Taylor Marie Hill

解説

これは当時、私個人が体の具合が良くなかったため、もし最後だったら! という想像をしていたことから生まれた物語です。今現在も弱い面はあるにしろ、あの頃より元気です。調子の悪い時のことも想定しながらライブやイベントに参加しています。そして、もちろん雛子のようなことをしてはいけません。病人本人も他の関係者も全員困り、迷惑になります。これはあくまでもフィクションです。

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