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スロウダンス

by 幸坂かゆり

 12月。

街の中は賑やかだ。どんな天気だろうが行き交う人々は浮かれている。僕の恋人、クロアに初めて会ったのも今の時期だった。

 2年前の冬、僕は仕事の帰りで街をぶらぶらしていた。その時、外から中の様子が見えるカフェに彼女がいた。短い髪を何度となくかきあげるその指は細くて長く小さかった。僕は彼女の指に魅かれ、カフェの中を追って入った。彼女がよく見える席を探してそこに座った。白いハイネックのセーターに黒い膝丈のスカートにブーツ。椅子の後ろには黒いコートがかけてあった。普通にどこにでもいるはずの女の子。いや、少女のように幼く見えた。仕草や煙草を吸っている所を見ると10代ではないだろうが20代にも見えない。要するに年齢不詳だった。しかし静かな彼女の繊細な美しさが僕の胸を突いた。色白な肌。はみ出したグロス。丸みのある顔の輪郭には若干唐突な鋭い眼差し。無愛想にも見える。彼女は誰かを待っているらしく、ぼんやりと頬杖をついて窓の外を眺めていた。

 しばらくすると彼女の待っていた人物らしき男が入ってきた。男は僕の印象だと荒れて見えた。彼女があまり表情を動かさずに片手を上げて男に場所を示した。男は席に着くなり、携帯電話をテーブルの上に置いた。結構大きな音だった。彼女の顔には静かだが怒りが浮かんでいた。

「遅かったんですね」

 彼女が小さな声でゆっくりと言葉を発した。敬語? どういう関係だ? 男は仕事のせいだよ、と言い訳をしてべらべらと何かを喋っていた。うるさい虫の羽音のようだった。彼女の周りだけが静寂に包まれていたので不思議で僕は釘付けになった。その内、彼女の相槌が気に食わなかった男は彼女に説教を始めた。こんなにたくさんの人間がいる中で怒鳴るなんて。僕は彼女が泣き出さないか心配になった。しかし次の瞬間、彼女は何も言わず立ち上がった。音も立てずに。その姿は男を見下ろす角度になった。男は今までの態度が嘘のように消え、急に怯えたようだった。彼女はそんな男を一瞥もせず椅子にかけていたコートを腕にかけ、さっとその場を離れた。その流れるような一連の動作が優美で、僕はぼうっと見ていたがどうやら男の方も、ぼうっと見ていたらしく、我に返ってからまたしても怒鳴るように彼女を止めようとしたが、自分が立ち上がった拍子にテーブルの上の飲み物を倒し、自分の携帯電話を濡らして一人で慌てていた。もう既に彼女はカフェを出ていた。僕は急いで後を追った。

 踵の高いブーツなのに背筋を伸ばしてきれいに彼女は歩いていた。とても速く。ふと、大きなショーウィンドウの前で立ち止まったので欲しい物を見ているのかと思ったが、ただ考え事をしているようで、そこに飾ってある品は目に入っていないようだった。そしてまたあの長い指で髪をかきあげた。かきあげてもすぐにさらりと元に戻ってしまうのに。しばらくして彼女は近くにベンチを見つけて座った。コートのボタンを上まできっちり閉めてポケットに手を突っ込んだ。その目はまるで華やかなイルミネーションを睨んでいるようだった。僕は彼女の横に座った。最初に彼女が気づいた。先ほどの目とは明らかに違う表情で僕を見た。僕はその眼差しにどきどきしたが気がついていない振りをした。そして彼女の視線を感じながら煙草に火をつけた。

「……あなた」

僕は彼女のたった一言で驚いて煙草を落としそうになった。

「え?」

「あなた、あのカフェに、いたでしょう」

 彼女はゆっくりとそして切れ切れに小さな声で話した。そうして彼女はゆっくり微笑んだ。不思議な感覚だった。急に懐かしいものを見たかのように泣きたくなるような。

「同じ、香りをしているわね。あなたと私」

「そう?」

「香りって、その人によって変わるでしょう。どうして、同じなのかしら。不思議ね」

 更にゆっくりと時間をかけて彼女は話した。何て細い声。その声を聞いていると、僕は彼女が消えてしまうような気がして、怖くなった。

「君、大丈夫だったのかい? あの男をあのままにしておいて。かなり怒っていたようだけど」

「ああ、いいのよ、私の先生なの。でもちっとも教えて欲しいことは教えてくれない。自慢話ばかり。だからもう会わないの」

「先生?」

「言葉のね」

 初対面で詳しく聞くのも失礼だと思い、僕は話題を変えた。

「君の名前、良かったら教えてもらえるかな」

「くろあ」

「え?」

「片仮名の、クロア。でも日本人よ」

「珍しいね」

「十字架、という意味の外国語らしいわ。両親がキリスト教徒なのよ」

 彼女が話す度に僕と同じ、でもやはり少し甘い香りが漂う。僕もクロアに名前を教えた。クロアはゆっくりと反芻した。そのクロアが急に時計を見たので急に僕の体に緊張が走る。

「あなた、これから、用事ある?」

 唐突にクロアは訊いてきた。

「いや、もう帰るだけだよ」

「もう少し、一緒にいてもらって、いい?」

「家で心配してないのかい? もう10時を過ぎてる」

「子供じゃないわ」

 そう言ってまた淡く微笑む。嗅覚、というのだろうか。互いに気に入っているというのは通じ合うものらしい。そしてふたりで先ほどとは別のカフェに行った。クロアは僕を賞賛してくれた。自分にはないと言う長い睫毛や、優しく微笑んだり、話す姿を。そしてお洒落だと。その後はもう既に離れるのが名残惜しくて僕はクロアを抱いていた。クロアも僕の体を囲むように抱きしめてくれた。他人からしてみれば何てことのない出会いかも知れない。ただカフェで互いのお気に入りを見つけて声をかけたら相手も気に入った。それだけの話だと思うだろう。

 クロアとの間には一度だけ口論らしき出来事があった。付き合い始めてからクロアの無口さが気になった時だ。僕と話していて楽しいかい? 君はどうも僕と喋るのを避けているように見える、と言ったのだ。

「避けてないわ」

「じゃあなぜ普通に話をしてくれないんだ?」

 売り言葉に買い言葉。その時、クロアは驚くほど哀しい目を僕に向けた。

「普通じゃなければ、いけないの?」

 そしてクロアは僕に劣等感を持つ部分を言葉に詰まりながら話してくれた。クロアの話に僕は自分を恥じた。普通なんてないんだ。クロアを見ていてそう感じた。だからこそクロアは誰よりも表情豊かな面を僕に見せてくれるのだ。口論らしきものはそれっきりだ。もう口論なんてする必要がなかった。

 仕事の打ち合わせを終え、クロアと待ち合わせたレストランに行く途中雪が降ってきた。本降りになる前に何とか辿り着いてクロアが待つ席に座った。彼女は微笑んで、お疲れ様、と、やはりゆっくり言った。そして互いに今日あった出来事を話す。クロアは表情豊かで更に身振り手振りも交えて面白おかしく喋るので僕は笑い通しだった。僕もクロアと一緒に今日あったことを喋った。彼女の笑顔は輝いていてとても美しかった。たった一度だけ聞いた彼女の劣等感。それは彼女が吃音を持っていることだった。

 ゆっくり話さなければ、それはひどくなってしまうの。なかなか言い出せなかった。今までを思うと……。そう俯きながら語ってくれた。僕はあの日、クロアをそのまま受け容れる、と言った。僕の言葉に彼女は泣くのをこらえ、最初はみんなそう言うわ、と信じてもらえなかった。しかし僕はクロアを失いたくなかった。何より彼女であることに代わりはない。

 しばらくクロアは僕と会いながら警戒していたようだが一年も過ぎる頃、ありがとう、と心を許してくれた。涙に頼らないクロアの瞳はお喋りで、誰よりも魅力的で充分僕を魅了しているのだ。クロアはいつだってたくさんの言葉を投げかけてくれる。その饒舌な瞳に誘われて僕はたくさんの話をクロアに求めてしまう。

 僕は思う。クロアは一度、人魚のように行動を手に入れるために声を売ったのだ。けれど、もう一度自分らしく生きることを選んで魔女に髪を捧げて自分に戻った。そんなひとだと思える。そんな美しいクロアと僕は人生を共に歩みたい。折しも街はクリスマス。僕とクロアはずっとスロウダンスを踊る。ふたりきりで。

《 Fin 》

2004年12月7日

解説

「吃音」という名称を書いて良いものか迷いましたが、それは悪いことでもなんでもなく、ましてや誰かに責められるなんてお門違いなものだと思い、書きました。ただ妙に感情的になる部分をぼかしているせいか肝心なところを書かずに逃げたなと言う感じです。それから何度でも書きますが会話ばかり! これは自分の過去のすべての小説に言えるところです。少しだけ書かれた描写はここ数日の間に足したものです。そのくらい会話だらけでした。

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