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月と踊る猫

by 幸坂かゆり

「とっととお帰りになって」

 女は男に向かって吐き捨てるように言い放った。きりりとした反論を許さない声だった。男はすごすごと帰って行った。その様子を隣の二階のベランダから顔をひょっこり出して覗く、まあるい瞳があった。

 あらまあ。お隣がまた口論をしている。原因は男にある。それだけはわかる。だって決めつける言葉が多いんだもの。わたしが言われたとしても同様に帰れと言うわ。だけど、あの大きく白いお屋敷の玄関口で話すものだからとても声が響いて外にまで筒抜けになっている。お隣の娘さんは見目麗しく、お年頃。名前も『アンナ』なんて外国人のようだった。艶やかなボブスタイルの髪型に細い体。ファッションはハイカラ。帰れ、と叱咤された男性は彼女の迫力ある黒い瞳に凄まれ、すごすごと戻ったようだった。

 ふと、彼女がわたしのいる方向に顔を向けた。

「あら! きこちゃん、見てたわね」

 気づかれた! わたしはベランダで首を縮こませた。

「もう、相変わらず好奇心旺盛なんだから」 

 そう言いながらも彼女が楽しそうに笑ったのでほっとした。

 

 わたしはそんな彼女、アンナちゃんが大好きだった。あの男の人はアンナちゃんに向いていない。もちろん性格はまったく知らないけど確信している。わたしはアンナちゃんを昔から知っているもの。つきあいも並じゃないもの。

 それなのにあの男の人はアンナちゃんの許婚なのだ。信じられない。もちろんご両親が決めた相手だ。アンナちゃんも最近は煩わしさを隠せないのか彼に冷たい。彼との結婚をそろそろ、と迫られているのだ。アンナちゃんは週二回、お稽古に通っている。花嫁修業と言うやつだ。いつも華やかな洋服に身を包み、所作も美しく運転手付きの車に乗る。華道なのか茶道なのか、はたまたピアノ? 何もわからない。乗り気ではない結婚なのにそうしたお稽古ごとに通わなければならないなんて。本当に嫁いでしまうの? そんなの哀しいわ、アンナちゃん。

 ある日の深夜、わたしはベランダで月を見ていた。三日月が見事な輝きで辺りを銀色に照らしていた。すると、かちりと小さな音を立て、滑らかにお隣の窓が開くとそこから白い足がにょきっと出てきた。美しきおみ足の主は長く重そうなスカートの裾を大胆に太腿までたくし上げ、その窓を乗り越え、屋根の上に来た。アンナちゃんだ。わたしは目で声をかける。

「あら、きこちゃん。いたの? 嬉しいわ。お話しましょ」

 もちろん。わたしはアンナちゃんの前まで、ぽん、と跳ねていき、隣で寛ぐ。アンナちゃんはきれいな透明なグラスにこれまたきれいな色のお酒を注いできたようで氷がからん、と音を奏でる。

「私ね、結婚しないの。でももう後戻りできないところまで進んでる。どんなにお断りしても話を聞いてと訴えても聞く耳を持ってくれなかったから。お父様もお母様も私を好きではないのね。体面ばかり気にして。私にだって感情があることを忘れているのよ。私、生まれてきて良かったのかしら」

 なんてことを言うの。生まれてきて良かったに決まっているじゃない。

「そうよね。きこちゃんがいてくれたから私、決断することができたのよ」

 決断?

「そう。明日にはわかるわ」

 そう言って、ぐいとグラスのお酒を飲む。細い首。けれど姿勢良く意志の強そうな首。

「・・・・・・女は嫁がねば恥。行き遅れは死んでおしまいなさい、なんてお母様は仰るの。私、申し訳ないけれど馬鹿にしてしまう。お父様は家柄の良さでお母様に敵わないものだから何も言えないの。だから同じように馬鹿にしてしまう。私はいや。そんな機械のような人生を歩みたくないの」

 そうね。でも一体どうやって別の人生を歩むの? 花嫁修業までしているのに。

「そう見えて? 行っていた場所は違うのよ」

 アンナちゃんはうふふ、と、悪戯っぽく笑う。

「住むお部屋とお仕事先はもう見つけて話をつけてあるの。小さい出版社の編集部よ。都会は華やかだけど華やかさなら私も負けない。絶対臆したりしない」

 探し回っていたっていうの?

「そうよ。運転手だって何も知らずにいる。毎回習っている“はず”の、お料理教室の入り口で私を降ろしてくれていたから。入ってすぐに入り口をすり抜けて裏口から出ていたの。私の人生は私が決める。この広い空に広がる星のように、結婚だけではなくたくさんの選択肢があると信じてる」

 さすがだわ、アンナちゃん。

「でしょう?」

 アンナちゃんはグラスを月にかざす。月はグラスの中に隠れ、気持ち良さそうに酒の海に泳ぐ。ゆらゆらと揺れ、更に星たちを輝かせるように。

 さてと、と何かを決意し、アンナちゃんは、すっくと立ち上がる。

「きこちゃん」

 なぁに?

「私、行くわ。夜明け前に汽車が出るの」

 え?

「黙っていてくれる?」

 そうわたしに告げるアンナちゃんの眼球は、まるで燃えているようだった。そんな炎の眼差しを一度こちらへ向けたと思うとすぐに踵を返し、アンナちゃんは部屋に戻った。

 しばらくすると、外出の支度をしたアンナちゃんが玄関をそうっと開けて外へ出てきた。昼間、既に詰めていたのであろう大きな荷物をひとつだけ持って。わたしは屋根から地上へと木を伝って降り、アンナちゃんを追った。一声鳴くとアンナちゃんは気がついて歩み寄り、わたしの前に屈んで話してくれた。

「きこちゃん。あなたの名前、私がつけたのよ。知らなかったでしょ。あなたのお母様はあなたを産んだあと、高齢だったためにすぐに死んでしまった。それでも死の直前まであなたを舐めて毛繕いをして元気に育つようおっぱいをあげていた。私もあなたのように愛情溢れるお母様が欲しかったわ。産まれたあなたを一目見た瞬間、希望の光を放っているように見えた。だから希望の希に無垢なあなたでいて欲しいと願いを込めて子供の子を合わせたの。私、あなたが大好きよ。いつも味方でいてくれてありがとう」

 アンナちゃんは優しくわたしの頭を撫でる。

 彼女の手の柔らかさでわたしは自分がどれほどしなやかな身体を持っているのか理解する。アンナちゃんは立ち上がる。そしてわたしに、にこりと明るい笑顔を向けるとそのまま振り向かずに夜明け間近の駅へと歩き出した。

 アンナちゃん、何処へ行くの? また会える?

 わたしの問いかけにアンナちゃんは一瞬、足を止めた。

「忘れないわ」

 アンナちゃんはもう振り返らなかった。けれどその何の確証もない返事をわたしは信じようと思う。わたしも忘れない。大好きよ、アンナちゃん。幸せになってね。また会えるかなんて聞いたけど、アンナちゃんが幸せになるのなら会えなくてもいい。どこにいてもアンナちゃんはアンナちゃんのまま突き進んで。あなたは煌く月そのもの。

 後日、お隣は静かに騒いでいた。

 わたしはその様子を二階の窓からじっと見る。小さな虫が自分よりも大きな虫から逃げるようにうろちょろしている様を思い浮かべた。つまり、滑稽。時折聞こえる声、その内容は。

 ドウシタライイノ、セケンサマニ、カオムケデキナイワ、ナンテハズカシイノ。

 ココマデソダテテヤッタトイウノニ、ナンテ、オヤフコウナムスメ。

 体の芯まで凍えてしまいそうな冷たい言葉。アンナちゃん、がんばって。あなたは間違っていない。わたしはアンナちゃんの母親に向かって威嚇する。

 そのまた数日後、戻らないままのアンナちゃんの屋敷では興信所から人間が来ていた。興信所。探偵だ。わたしはわくわくする。屋敷の前に想像よりもオンボロな黒い車が止まり、ドアを開け、そこから一人の男が降りてくる。その姿を認めた瞬間、わたしは、かくんと首をうなだれる。だってその探偵ときたら、薄い髪を不自然に横に撫でつけた頭に、よれよれのジャンパー、灰色のズボンなんて履いて、膝の裏にくちゃくちゃの皺ができている。しかも裾が足の長さに合っていない。裾上げをし過ぎてつんつるてんになっている。

 ああ、なんてこと。以前アンナちゃんが教えてくれた本に出てきた登場人物の探偵は、背が高くてトレンチコートにソフト帽を斜めに被り、タバコを咥え、コロンが香るようなハンサムな紳士のはずだった。まあそれも期待し過ぎではあったけど。

 しかしあんな風情でもアンナちゃんの捜索を仰せつかって来たのだ。なかなかに敏腕なのだろう、なんて思ったが、ものの数分で帰されてしまった。何事だろうと思ったら、ああそうか。アンナちゃんがどこかの男と駆け落ちしたのでは、と疑われてご両親のプライドが、がちゃと刺激されたらしくご立腹あそばされたのね。探偵さんなんて職業である以上そう考えることもあるでしょうに帰しちゃうなんて。アンナちゃんが心配じゃないの? 世間体がそんなにも大事なの? 探偵さんの思考は至極全うだとわたしは思うの。もちろん見つかって欲しくはないし、見つからないと思うけれど。

 まあ、どちらにしても気が強いアンナちゃんが先ほどの格好悪い探偵を見たら、可憐な顔に似合わないようなひどい悪態をつきながら両頬に手をあて、大げさに嘆いてみせるでしょうね。

 

            《 了 》

解説

とあるアンソロジー公募に募集するため、どのようなものを書いているのかお見せするのに、このスナップにて公開しました。この掌編は拙著「哀しみのための夜想曲」にも収録されておりますが、私が書くものは同じものはひとつもありません。この短い物語すらどこかしら変えております。

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