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泣きたい時には泣いて

by 幸坂かゆり

「ねえ、マーガリンったらまた違う男と歩いてたわよ」

 クラスの女たちの話題はいつもそれだ。マーガリンは、少し頭が弱いが素晴らしい体と美しい顔を持っていて誰とでも寝る白痴、として巷で噂になっていた。サムは興味のない振りをして教室を出た。誰にも言ってはいないがマーガリンは、サムの恋人なのだ。

 ふたりの出会いは、サムが学校をさぼって煙草を吸いに川に行った時だった。

 ぼんやりしていたサムの視界に美しい少女が割って入ってきた。彼女は川で泳いでいた。よく見ると全裸だった。栗色の髪が澄んだ水に広がり、色白の肌の上を水が弾け、飛び散る陽射しに輝いていた。絵画のようだ。サムは彼女の姿に煙草も吸わずに見とれた。しばらくすると彼女が水から上がって来た。サムのいる場所から少し離れた所に服を置いていたらしく、そのままの姿でタオルを敷いて日向ぼっこを始めた。

 サムがぼうっと彼女に見とれていた間、吸われることのない煙草はみるみるうちにただ減っていき、サムの腕に灰が落ちた。その熱さに思わず声を出してしまって、彼女はサムの存在に気づいた。サムは慌てた。大きな声を出されたらどうしよう。瞬時にそんなことがよぎったが彼女はサムに「こんにちは」と挨拶しただけで慌てる様子はなかった。その柔らかな笑みがサムには天使に見えた。

「……少し話をしないかい?」

 サムがおずおずと彼女に話しかけると、彼女は微笑んだまま頷いた。彼女はシャツを纏った。

 木陰にふたりで並び、ただ心地良い風を感じて座っていると不思議とサムの心は落ち着いた。川の流れと風の揺れる音。何故だかサムは懐かしい光景の中にいるような錯覚に陥った。

「泳ぎが上手だね」

「そう? ありがとう」

「名前は?」

「マーガリン」

 サムは心の中で、え? と驚いた。この美しい彼女が噂の白痴なのか?

「静かね。今日はとても気持ちいい天気だわ。だから泳ぎたくなっちゃったの」

「そうだね」

 彼女は白痴なんかじゃない。サムははっきりそう思った。そして思うよりも先に口にしていた。

「オレの恋人になって」

 その時の光景をサムは思い出していた。互いに子どもに返ったように話をして、会えて良かったと心から思い、抱き合った。とても優しいマーガリン。しかしサムは少しずつ噂を受け容れている自分にも気づいていた。付き合い始めは夢中な日々が続いたが、何を言われても怒らずに笑っているマーガリンに苛立ち始めていた。たまにサムはマーガリンの前で無口になった。するとマーガリンは途端に道化師のように振る舞ってサムを笑わそうとした。そんなマーガリンを見るのも嫌になってきた。いつしかサムでさえ、彼女を「美しい体」としか見ないようになっていた。

 ある日、大人びたクラスメイト、ソフィーがサムを誘ってきた。

 ソフィーもまた美しかったがマーガリンとはまったくタイプが違い、頭の回転が早く、冗談もたくさん言う。サムは久し振りに浮かれた気持ちになり、マーガリンとはつきあったままでソフィーともつきあうようになった。ソフィーとつきあったことでマーガリンとサムがつきあっていたことも周囲にばれた。

 マーガリンが何気なくサムに話しかけた時、ソフィーが私の恋人に何か用? と遮ったことからだった。マーガリンは「えっ」と言ったきり、言葉を返すこともせずサムから離れた。二股なんて良くないことだと判っている。しかしクラスメイトは何も言わなかった。サムも最初からマーガリンには本気ではなかったのだと無言で納得していた。他の男たちと同じようにマーガリンの体が魅力的だったんだろう、とみんな口々に噂をした。マーガリン自身にもその噂は届いていたが、信じているのかいないのか、彼女はいつも笑っていた。

「ねえ、サム。マーガリンと別れて。私がいるじゃない」

 ソフィーは当然のことを切り出した。しかしサムは一瞬、戸惑った。けれど確かにきれいなだけで何にも役に立たないマーガリンはもう自分には不必要な存在だと思い「さよならを言ってくるよ」と称してマーガリンと会う約束をした。

「話ってなに?」

 マーガリンがいつもの無邪気な顔でいつもサムと待ち合わせる木陰に来た。サムはまだ心のどこかに迷いを抱えていたがマーガリンがどんな反応をするのかも気になったので、半ば興味本位で別れを口にした。マーガリンは一瞬黙った。何を言われるだろう、とサムは思った。しかしマーガリンはすぐに笑って頷いた。

その笑顔を見た時、サムは自分でも驚くほど動揺してマーガリンをぶってしまった。強くぶたれた衝撃のせいでマーガリンはバランスを崩し、草の上に転倒した。

「どうしていつも君はそうなんだ!」

 更にサムは彼女の肩を掴んで強く揺さぶった。マーガリンは怯えた顔でサムを見て言った。

「いけないことだったの……?」

 その言葉にサムは絶望して肩をそっけなく離し、その場を後にした。残されたマーガリンはサムが去って行く後ろ姿を見えなくなるまで目で追った。粒ほども見えなくなった時、全身の力が抜けてその場にしゃがみこんだ。唇が震えていた。

 次の日から、サムとソフィーは晴れて恋人同士として腕を組んで歩くようになった。それから更に日が経ち、クラス全員で学校のボランティア活動の一環で老人たちのいる施設を訪れた。そこでもソフィーは上手に老人に話しかけていたのでサムは感心した。彼女とマーガリンは出来が違いすぎる、と思っていた。その時、あるひとりの車椅子の老婦人がソフィーに話しかけた。通っている学校の名前を訊ねられたのでソフィーは華やかに笑って答えた。

「あら、マーガリンの通う学校ね。あの子のお友達?」

 ソフィーとサムは一瞬、顔が引きつった。

「……クラスが違うのであまり知らないんです」

 ソフィーは作り笑顔を貼り付けつつ、やんわりと嘘をついた。

「そうなの。残念だわ、あの子ね、毎日来てくれるのよ。今日はまだだけれどいつも面白いアイディアを浮かべては私に話してくれるの。孫のように思えちゃうのよ」

 ソフィーは口先だけで話を合わせ、適当なところで老婦人から離れた。サムは話の続きが気にかかった。

 次の日、ソフィーに内緒でサムひとりで施設に行った。老婦人はサムの顔を憶えていて微笑みかけてきた。

「あの、今日はマーガリンは……」

 途端に老婦人の顔が曇った。

「それが来ていないのよ。昨日も待ってたのだけど結局来なかった。明日も来るわって明るく帰ったのに。心配だわ。何かあったのかしら」

「マーガリンはあなたの親戚か何かなのですか?」

「いいえ、血の繋がりも何にもないの。出会ったきっかけはね、私が外出して車椅子の車輪が歩道の一角に挟まって動けなくなった時よ。一緒に外出したスタッフはちょうどお手洗いに行っていた。私が勝手に行動したのがいけなかったんだけど、結果ひとりで動けない状況になった。するとあの子が私を見つけてすぐに飛んできて手助けしてくれたわ。みんな障害者なんか面倒だって顔するのに。それから親しくなって色んな話を聞かせてもらったの」

 老婦人はここで一端話を切った。

「あなたはマーガリンとどういう関係なの?」

「恋人、です」

 サムはなぜそんなことを言ったのかわからなかった。ソフィーがいるというのに。

「まあ、そうなの! 昨日言ってくれれば良かったのに。あの子に何かあったの?」

「いえ、あの、ちょっと風邪を引いていて、うつしちゃいけないからって……」

 サムの嘘を丸ごと信じて、老婦人はまた優しく笑った。

「そう、あなたにはそういうことを話すのね。良かったわ。あの子の境遇は聞いてる?」

「……いえ」

「あの子、被虐待児だったのよ」

 サムは全身の血の気が引いた。

「はいはい! 何を話しているのかしら? あなたはお孫さん?」

 スタッフが貼り付けた笑顔で飛んで来た。老婦人の話はプライバシーの侵害になる。

「ま、待ってください。はい、あの、友人のおばあちゃんで……」

「この子、マーガリンの恋人なんですって!」

 老婦人に先手を取られてしまった。

「まあ! そうなの。優しい子には同じく優しい恋人ができるのね。良かったわ。でも少し話しすぎよ」

「す、すいません」

「大事なことじゃないの。特に恋人なら」

「もう」

 スタッフの女性は困った顔をしたが、サムは聞きたくて仕方がなかった。そして老婦人も話すのを止めなかった。

「いつも他人と話す時、びくびくしているって言ってたわ。小さな頃にずっと両親から暴力を受けていて、それでも両親を愛しているって言うのよ。でもそれは笑顔でいないと殴られるからなの。一度問いかけたのよ。そんなんじゃ、あなたが辛いでしょう? って。そうしたらこう言ったの」

 私は耐えられるから大丈夫。私をけなすことでみんなの気持ちが楽になるのなら、いいの。

 こんな想いは他の人にさせちゃいけないわ。

「そういうことなのよ。誰にも言わないでね……」

 スタッフがサムの肩に手を置いた。

 マーガリンは生来、聖的に優しかったが、優しすぎた。それは過去に暴力を受け続けた記憶が、彼女をそういう人物にさせてきたのかもしれなかった。

 複雑な気持ちを抱えたまま学校へ行ったサムは、クラス中から白い目で見られていることに気づいた。マーガリンが行方不明になったのだ。当然のようにサムとソフィーのせいになった。マーガリンが被虐待児であったこともみんな知っていた。知らなかったのはいつも学校をサボり、この場にいないサムだけだった。そんな事柄であっけなくソフィーとは終わった。しかしサムは憤った。

「おまえらなんかにマーガリンのことを言わせない! おまえらはいつもあいつをバカにしていただろう!」

 ひとりの女子生徒がサムのそばに来て言った。

「サムだってそうだったでしょう?」

 ……言葉が出なかった。

 そう、この時ほどサムは自分の心の浅はかさを憎んだことはない。サムは自分勝手にマーガリンと関係を持ち、同様に別れを告げたのだ。更に、彼女に一番してはいけない暴力をふるってしまった。最低だ。サムはマーガリンの行く場所を考えた。それは初めて出会ったあの川のはずだ。サムは確信していた。マーガリンの本物の笑顔を見たのはあの場所だったからだ。サムは教室を出ようとした。

「逃げるの?」

 サムの背中に先ほどの女子生徒が言葉を投げた。

「違う……。オレはマーガリンのいる場所がわかるから見つけに行くんだ」

「どうしてわかるの?」

「オレもマーガリンと同じだったから。虐待されていたんだ……両親に」

 女子生徒は驚いた顔をしたが、サムの肩に優しく手をかけ、頷いた。サムは女子生徒の心遣いに感謝した。

 思ったとおり、川にマーガリンはいた。ただ川の流れを見つめていた。

 サムがそっと近づくと、彼の存在に気づいて振り向いたマーガリンは、怖いものを見たような表情になり、慌ててサムのそばから走って逃げた。これまで意思表示をしたことのない彼女が初めて見せた行動だった。サムはマーガリンを追いかけた。マーガリンは川の前まで行き、立ち止まった。サムはほっとして足取りを緩めた。

 しかし次の瞬間、マーガリンは川に飛び込んだ。サムは彼女の名前を叫び、追って川に飛び込んだが、浅くて足がすぐ底についた。辺りを見渡しマーガリンの姿を探すと、マーガリンは敢えて足をつけず、流されるままにしていた。サムはざぶざぶと腕で水をかいてマーガリンのそばに行き、腕を掴んだ。マーガリンは言葉を発しなかったが絶望的な表情を浮かべてサムを見た。哀しみに覆われたその瞳は限りなく澄んでいてサムの胸を突いた。

 あの日、サムに別れを告げられた日、マーガリンは自分のしていたことが、愛する男を傷つけたのだと知って自分を強く責めた。それは彼女の心を打撃するには充分だった。陽射しが眩しく降り注いでいたがこんなに辛い陽射しは初めてだと思った。マーガリンは神のそばに行こう、と決意した。それからずっと最期の場所を捜していた。施設にも最期だとは告げずに車椅子の老婦人に会いに行った。そしてやっと場所を定め、実行に移そうとした時、こうしてサムが来たのだ。

 岸に上がってふたりは向かい合った。息を弾ませながらマーガリンは下を向いて黙っていた。やがて、彼女の唇が謝りそうな形になった時、サムはマーガリンをゆっくりと壊れ物を扱うように抱きしめた。

「謝らなくていい。何も言わなくていい。君が悪いんじゃないんだ」

 マーガリンが顔を上げる。

「……私は悪くないの?」

 恐る恐るマーガリンはサムに問いかけた。子供のような表情だった。

「そうだよ、君は何も悪くない。ねえ、マーガリン、聞いて。これからは君の痛みにオレもついていくから。だから感情を隠さなくていい。泣きたい時は泣いて欲しいんだ」

 マーガリンはそっと腕を伸ばしてサムの顔を触った。目蓋や、鼻、頬を愛撫するように。そして口許に指が触れた時、サムは微笑んだ。その口角に触れた瞬間、マーガリンの目からは、ぼろぼろと惜しげもなく涙が溢れた。その美しい顔をくしゃくしゃにして彼女は泣いた。サムもマーガリンと一緒に泣いた。サムは先ほどの約束を絶対に忘れないと誓った。これからも、ずっと一緒にいることを。

《 Fin 》

2004年10月17日

解説

この物語も大澤誉志幸さんの曲のタイトルから想起した掌編です。本当に下手な上、感情に走って途中で何度読み返すのを挫折しそうになったか。あまり過去に書いたものを現在の気持ちで手直しをするのは良くない、と思いつつ、この物語には思い入れがあったので、改めて推敲をしてこちらに残しておくことにしました。この掌編を読み終えたあと、大澤さんのこの美しく純粋な曲がエンドロールに流れていたらいいな、と言う想いで書きました。

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