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恋の傷痕

by 幸坂かゆり

 ランプの灯りが揺れるその店はボサノヴァが流れ、ゆったりとした空間を彩っていた。

 私たちは2杯目のグラスを手にしている。1杯目は何を頼んだのかすら憶えていない。体中にアルコールが沁みてやっと少し落ち着きを取り戻した。カウンターに私と、私の隣に座っている男は、過去に恋人同士だった。この店での再会は偶然だ。もう10年ほど前の話になる。

「今、何の仕事をしているのか聴いてもいい?」

「小さいけど店を持った。昼はカフェで夜はバーとして営業してる。君は?」

「仕事は変わらないわ。でも結婚して部屋からは引っ越したわ」

「そうか、おめでとう」

「ありがとう」

 あなたは、ちらりと私の顔を見たが私は気づかない振りをしてグラスの中のジンを飲んだ。手が震えている。私とあなたが初めて出会ったのも、やはりこんな静かな店だった。

 そう。普段は静かだった。けれどその日は近くにいた席の男が酔って私に絡んできたのだ。私の隣には恋人が座っていて、ひとりじゃないことに気づいているはずなのに。あなたは臨時のバーテンダーで酔った客を何とかなだめようとしてくれたが相手にしない客に腹を立て、その男を殴ってしまった。私の恋人は「巻き込まれるのはごめんだ」と言って私の背に手をかけ、すぐに店を出ようとした。私はあなたが気になって足を止めたが、恋人に引っ張られてその店から連れ出された。しかし自分を守ってもくれなかった恋人の手など振りほどき、もう一度ひとりで店に向かった。そこで口論になったため、少し時間が経ってしまった。

 ちょうど私が店に戻りついた時、あなたは店のマスターにこっぴどく叱られている所だった。どうやって謝りに行こうと考えていると、売り言葉に買い言葉であなたはマスターに乱暴な口を利き、クビを通告されてしまった。あなたは大きな音でドアを閉めて店を出た。そこで私と思い切り鉢合わせをした。

「ごめんなさい。私をかばったせいで……」

「あなたのせいじゃないよ」

 よく見るとあなたは口の端を切っていた。

「血が出てるわ」

「マスターに殴られたから……」

 あなたは乱暴に血を腕で拭った。

「こすっちゃだめよ! 傷が深いわ!」

 私はすぐにバッグからハンカチを取り出してあなたの唇に当てた。あなたは一瞬抵抗したけれど私が強引だったせいだろう、すぐに体の強張りを溶いた。

「……こんなんじゃ駄目だわ。部屋に来て。手当てするから」

 そう言って私はタクシーを止めて、あなたを自分の部屋に連れてきた。部屋に入ってすぐにバッグをその辺に投げるように置くと、薬箱を持ってきて消毒液を取り出し、化粧用のコットンに染み込ませて突っ立っているあなたを部屋に引っ張り上げた。内心、自分はなんて大胆なことをしているんだろう、と思った。見ず知らずの他人、しかも男だ。けれど気持ちは二股に分かれていた。何しろ相手は怪我人で、それも自分のせいなのだから介抱するのは当然だ、と。

 唇の端にコットンを持っていくとそれまで一言も発しなかったあなたが「いてて!」と小さく叫んだ。確かに消毒が沁みれば誰だって痛い。けれどその反応に私は吹き出してしまった。

「何だよ。痛いのに……」

 そう言いながらも緊張が和らぎ、あなたも私につられて吹き出した。あなたは顔を俯かせて、広い肩を上下に揺さぶって笑った。目の端にたくさん皺を寄せて。笑いが止んでその微笑みの残る表情であなたは何秒か目を閉じた。その顔を見て、この人を離したくないと強く思った。

「今夜中にこの傷治るかな」

「ムリよ。数日はかかるわ」

「早くあなたにキスがしたいんだ」

 驚いてあなたを見た。あなたも同じふうに感じていたのだ。

「……私、付き合ってる人がいるのよ」

「あなたを助けてもくれなかった奴? だったらそんな男、関係ない。オレはあなたに惚れたんだ」

 当然の意見だ。しかもその「助けてくれなかった奴」の腕を振りほどいてきたのだ。その瞬間、理性では押さえ切れない欲望が私を動かした。

「キスなら……」

 あなたは顔を上げて私の顔を凝視した。

「今すぐできるわ」

 すると、あなたは待っていたかのように私の背中を抱き寄せると、私の唇をこじ開けて舌を絡ませてきた。私もあなたの背中に腕を回してキスに応えた。キスだけで世界が動いているような錯覚に陥るほど深く甘いキスだった。

 その日から、あなたは私の男になった。私は恋人とすぐに関係を終わらせた。そしてあなたは昼間の飲食店の仕事を見つけて私の部屋に転がり込んできた。あなたはその無邪気な目で私を虜にした。私は少し年上だったけれど、毎日待ち切れないくらいに強く抱き合った。あなたに抱かれるたびに私はどんどん子供に戻るようで、その心地良さに仕事に追われている日常から離れたくなった。

 そして二人で旅行に行った。海が美しい島へ。私たちは海でも、部屋の中でも、互いの体を貪り、快楽に溺れていた。どんなに愛しても足りないくらい求め合った。そんな日々が続いた。

 しかしそんな私たちにも惰性というものが襲いかかっていた。あなたはある日、私が仕事から戻ると先に眠っていた。私は笑ってあなたをくすぐり、起こそうとするとあなたは寝ぼけていたのだろうが私の手を跳ね除けた。嘘だ、と思った。私はムキになってあなたの意識を覚醒させようとした。あなたは目を開けたが「明日は仕事が忙しい日だから……」と言ってまた目を閉じた。

 こんなことは初めてだった。私は自分を持て余し、リビングをうろうろと歩き回った。その内、腹立たしくなってきた。私だって仕事で忙しいし、疲れているわ。毎日毎日セックスをしているけれど会話すら満足にしていないじゃない。それなのに、あんな断り方ってない。跳ね除けられたショックが私の心の柔らかな部分に穴を開けられたようだった。

 その日から私の眠りは浅くなっていった。そのせいで朝、起きられなくなってしまった私は仕事を遅刻することが多くなった。私は職場では良い位置にいる為、部下に色々とこれからのことを指示し、私がいない間も仕事を回せるようにして数日間の休みをとった。私はあなたと心置きなく過ごせるのが嬉しかった。

「それがいい、疲れてたんだよ。最近少し気が立っていた気がするし」

「やっぱりそう?」

「うん、そんな気がする」

 あなたは私の髪を優しく撫でた。そうか、私は疲れのせいで気が立っていたのか。だからあんなふうに苛々してしまったのだろうか、内心、色んな思考は止まらなかった。

 一時的に専業主婦のようになった私はあなたを仕事に見送り、料理を作り、出掛けるといえばスーパーマーケットくらいになり、久し振りにゆったりと過ごしてあなたとの恋も戻ったように思えた。時折、仕事仲間との飲み会であなたが遅くなってもドアを背にしてあなたを待つのが好きだった。帰って来たら「悪い子!」と言って、あなたをベッドに押しやった。あなたは「やめてよ、ごめんなさい」と言って笑いながら私を抱いた。

 そんな生活の中、クリスマスがやってきた。

 私はケーキを焼いて、珍しく手料理を作り、あなたの帰りを待った。プレゼントも用意した。けれどもあなたはなかなか帰ってこない。飲食店だしクリスマスで混んで仕事が終わらないのだろうか。色々と頭で理由を考えていると、1時間、2時間と時は過ぎた。気づくとうたた寝をしていた。部屋の中が暗くなっていて出しておいたシャンパンがぬるくなってしまっていた。時計を見ると午前3時。どうして。私は苛々してくるのを必死に抑えて窓辺に向かった。ちょうどあなたがタクシーを降りてくる所だった。足音が聞こえ、部屋の鍵を静かに開ける音がした。私は迎えに行かなかった。あなたは椅子に座って俯いている私を見つけて驚いた顔を浮かべた。

「……起きてたの?」

 あなたは気まずそうに私を見た。

「何してたのよ。こんな時間まで……」

 低く呻くような声で私はあなたに問いかけた。

「職場のヤツらと飲んでた。連絡を入れるのを忘れたのは謝るよ、本当にごめん」

 ワスレテタ……。

 途端に目に入るすべての料理が汚く映った。私は椅子から立ち上がると、テーブルの端から両腕を滑らすようにして料理をすべて床にぶちまけた。食器の割れる音がフローリングの床に響いた。

「何やってるんだ!」

 あなたの問いかけにも答えず、私は呆然としていた。硝子の破片で私のくるぶしが切れたのか、血が出ているのが見えた。あなたは私を自分の方に向かせた。酒臭かった。

「寄らないでよ! そんなお酒の匂いをぷんぷんさせて……」

「飲んだから……。でもいくらクリスマスだからってそんなに怒らなくたって」

「そうね。あなたが飲みに出ることはたびたびあったわね。私がこんなにも憤慨しているのはクリスマスだったから……?」

 そこまで言うと私は羞恥のあまり顔が赤くなった。恥ずかしい。恥ずかしい。その気持ちが抑え切れなくなって硝子の散らばる床に思い切り手をついて拳でどんどんと叩いた。あなたは必死で私を止めた。手が血だらけになった。あなたは私に「落ち着いて」と繰り返していたように思うがよく聞こえなかった。

 おかしかった。何もかもが。クリスマスが理由じゃない。理由があるとすればたったひとつだ。あなたと毎日寝たかったの。そのために仕事も休むことにしたの。けれどそんな理由、言える訳がない。本当の私の想いは、誰があなたを大人にしてやったと思っているのよ、と言う汚い気持ちが心の奥底にあったからだ。最低なのは私。ただ私のプライドが傷つけられたことに腹を立てていたのだ。

 しばらくして我に返ると、あなたは私の手から硝子を取り除いてタオルで血を押さえてくれていた。ふと窓を見ると閉め忘れたカーテンに自分の姿が映っていた。猫背になって髪を乱した姿。こんなの私の趣味じゃない。私はただ自分が惨めで口惜しくて泣いた。あなたは私の背中を撫でて黙っていた。多分私がこんなふうに化け物のようになってしまったことはあなたには訳がわからなかっただろう。私自身も気づかなかったが家の中にずっと篭ることで私の中の何かが狂ってしまった。時間が過ぎるのを恐れる私を、恋のようなものが抑えつけていた。ふと傷ついた掌を見た。

 この傷はどのくらいで治るだろう。

 何ヶ月か前に聞いたわ、この台詞。この問いかけは、あなたが私を欲情させた言葉。あなたの傷は私を口説いたけれど、私の傷はあなたを口説くことができない。ただ重いだけだ。

 後日、大きな傷ではないことがわかった。本当に「皿を壊した時に傷つけた」と言っても充分通じるくらいだった。私は次の日、仕事場に復帰した。しかしあなたはその日から私を腫れ物を扱うようになった。そんな態度はもう恋人同士なんかじゃない。やがて私は決心して言った。

「出て行って。もう終わりにしましょう」

 あなたは分かっていたようで黙って出て行った。荷物は私がまとめて宅急便で送った。それきりになった。お節介な友達の噂であなたのことを聞いたりもした。でも聞きたくなかった。忘れてしまいたかった。私にはあなたを愛してあげることができなかったから。ただ、あなたの想いを奪っていたから。プライドが壊れた瞬間だけが私の中に残ったものだと思った。

「そろそろ行くわ」

 私はスツールを降りてあなたの方を向いた。たった2杯のジンで酔っ払ったようだった。あなたは座ったまま私を見た。私とあなたの背が並んで、私もまっすぐにあなたの顔を見た。あなたは俯いた。

「そんな顔しないで」

「……どんな顔?」

 あなたは怪訝そうに私に問いかけた。

「キスしたくなるような顔よ」

 今なら言える言葉を私は口にした。恋の傷は完全に塞がっていた。私たちの恋は肉体だけの恋だった。心に浸透する前に終わった。口にできるような思い出は少ないけれど体の記憶は雄弁だ。そして、私はやっと最初に出会った頃のようにあなたに優しい微笑みをあげることができた。

「元気で」

「君も」

 私はあなたの視線を感じながら店のドアを開けた。外には約束の時間ちょうどに、夫が車の中で待っていた。夫は、私が過ちに気づいたあとに出会った最初の男なのだ。

《 Fin 》

2004年11月15日

解説

これは、半ばノンフィクションでもあるのですが(結婚の部分は除いて)文章は山田詠美さんに影響され過ぎています。しかも「たった2杯のジンで酔っ払ったようだった」って。2杯もジンを飲んだら立派に酔っ払って多分スツールからコケます。この掌編は発表当時、男性に多く共感してもらいました。でも今現在、2004年に書いたこの物語を読んだらとても幼いと思えます。これは恋ではなくただの欲求ですね(身も蓋もない)大澤さんのどの曲を参考にしたのかすら憶えていないくらい、あまり読み返していない作品ではあります……。(後日調べました。「プラトニック・ダンサー」と言うセクシーで大人な曲でした)

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