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深層のプール

by 幸坂かゆり

 加奈子は、最近自分を遠ざけるような態度を取る婚約者に不信感を抱いていた。

 婚約者である浩樹は優しい人だ。以前はしょっちゅう会っていたのに最近「忙しい」と言う言葉が増え、加奈子と会おうとせず、今日も消化不良の会話のまま電話を終えた。

 気になった加奈子は彼が職場を後にする時刻を見計らって職場のすぐ近くで待っていた。浩樹は驚いた顔をしたが「いつもごめん」と謝ってきた。

「後輩が大きなミスをしてね……。職場の全員でカバーをしてるんだけどなかなか思ったように進まなくて」

「そうだったの、大変ね。教えてくれてありがとう。知らないままだったら私、あなたを変に疑ってしまったかも知れない。そんなのは嫌だったからこうやって来てしまったの」

「加奈子は悪くないよ、連絡もろくにしなかった僕が悪かった。ごめん。ただこんなに疲れていたら君に当たり散らしてしまうから迷っていた部分はあるよ」

 そんなふうに話す浩樹は酷く疲れた顔をしていた。目が落ち窪んでいる。

 浩樹の言葉に加奈子は納得したが、顔色の悪さもやつれ具合も気になった。浩樹と最後にゆっくり会ったのはもう1か月も前になる。

 その日はふたりで水族館に行き浩樹は「随分、可愛らしい所に来ちゃったな」なんて言って笑っていたのに。一人暮らしの浩樹に加奈子は夕食を作りに行くことを提案した。

「ごめん。本当にいいんだ。今夜は来ないで欲しい。後輩の件もようやくなんとかなったし、明日からしばらく休みが取れる。休めば体調も良くなるさ。そうしたらゆっくり会おう。君の行きたい所に行くよ」

 浩樹は優しく加奈子に言った。

 それから数日後、じっくり休みを摂ったと浩樹から連絡があり、この日は久しぶりにドライブをした。しかし、心なしか浩樹の接し方が気にかかった。加奈子に気を使っているように思えたのだ。明らかに加奈子に対してどこか一線を引いている。けれど浩樹が加奈子に向ける笑顔を見て、加奈子は自分のために本調子ではないのに無理をして外出してくれたのかも知れないと思い直して、この日はドライブを終え、食事をした後、後ろ髪を引かれつつも体調を考えてすぐに帰宅した。

 部屋に戻った浩樹は、その辺に捨てるように上着を置いて、ソファーに凭れた。

 ひとりで住むには広い部屋。この先加奈子と結婚して一緒に住むとしても広すぎる。この部屋を借りる時、紹介してくれた知人に「いわくつき物件だから安い」と言われていたが、どんないわくつきなのかをよくよく聞くと最後に数年住んでいたお年寄りが孤独死をしたという話だった。人間は誰でも死ぬ。そんなことでいちいち、いわくつきだなんて言っていたらキリがない。だから浩樹にとっては好条件であるこの部屋を手放す訳には行かない、と思い借りたのだ。それよりもこの部屋には小さいけれどプールがあり、その設備の方が気になった。死んだ老人はこのプールを使ったのだろうか。知人に聞いても老人の死因は病気であって、見つかったのもベッドの中であり、プールもしばらく使用した形跡がなかった。

 照明で明るさを調節すると、束の間、異世界に迷い込んだような気分にさせてくれる。浩樹はソファーから立ち上がりプールに向かった。プールは人が泳ぐためと言うより広い水槽のような印象だった。恐らく老人も本格的に泳ぐと言うより、水の中を歩いたりするような軽いリハビリ的な意味合いで作ったのだろう。

 しかし、今はその水槽のようなプールには住人がいる。弘樹は人魚を飼っていた。もちろん加奈子には内緒にしてあり、部屋に呼べない理由はそこにあった。

 人魚は1か月前、加奈子と一緒に行った水族館で見つけた。その日は暗がりの水槽がライトアップされ、幻想的な空間に泳ぐ魚たちをふたりで楽しんだ。そして加奈子が化粧室に行っている時、気になる一室を見つけた。こぽこぽと魚がいるような水音が聞こえてはいるが「出入り禁止」と乱暴に書かれたプレートがドアノブにかけてあった。浩樹は興味から係員がいないのを確かめた後、そっとドアを開けた。

 そこに人魚がいたのだ。一瞬、大きな魚を人魚と見間違えたのかと思った。しかしじっくり見たところ、どう見ても上半身は人間で下半身は魚という生き物だった。人魚は体を半分に折って眠りについていて浩樹には気づかなかった。水の中で長く伸びた髪がゆらゆらと揺れ、腰が細く、膨らんだ乳房は女性そのものだった。ふらふらと近づいて姿を凝視すると耳だと思われる部分には小さく薄いひれがついていて虹色に煌いていた。閉じた瞼は睫毛がそよぐほどに長く、きちんと人間の面差しをしていてとても美しかった。もっと見ていたかったが物音がしたのでその場を離れた。胸の内ではとてつもなく好奇心が広がっていた。

 その日、加奈子を家まで送ってからも人魚の存在が頭から離れなかった。そんな時ふと、窓から見える部屋のプールに目が行った。浩樹はこのプールにあの人魚を連れて来たいと思った。少なくとも人魚の入っていた水槽よりこのプールの方が広さがある。このプールの中で色んな角度から人魚の姿が見たかった。

 その日から浩樹はひとりで水族館に赴き、人魚の飼育を研究した。人魚が生きるために何が必要なのか、何を食べるのか、どんなふうに暮らすのがベストなのか神経質なほど係員の動向を探った。実は加奈子と会わなくなったのは仕事のせいでもなんでもなく人魚が原因だ。確かに後輩のミスはあったがそんなものは1日で終わらせていた。

 計画を着々と進め、浩樹の考える条件の整った真夜中、水族館にそっと侵入した。既に館内のルートや水槽に関して調べ上げていたため、人魚に近づくのは素早かった。浩樹は水槽にいる人魚の腕を掴み、自分に引き寄せてから抱きかかえた。水の中で突然見知らぬものに触れられた人魚は驚いて、じたばたと動いた。浩樹は「ごめん」と小さな声で囁くと人魚の腹部当たりを拳で軽く打って眠らせた。そのまま急いで用意しると車に乗せ、部屋に戻った。

 既に人魚を迎え入れる準備が整っていたプールを見渡し、浩樹は人魚の顔を見た。人魚はまだ気絶しており、すーすーと鼻から息をしていた。どうやら陸の上でも呼吸ができるようだ。そしてその顔はやはり浩樹を虜にした。この世のものとは思えないけれどやはり人間の肌の質感を持っていた。たっぷりと水分の満ちた艶々と滑らかな肌に重そうな乳房が揺れ、なだらかな腰の下からは流れるような鱗へとグラデーションを描き、虹色に輝く尾ひれへと繋がっていた。長い時間が経過し、やがて人魚は目を覚ました。瞳の色は繊細な薄い青色をしていた。人魚は静かに唇を動かした。

「口がきけるの……?」

 浩樹が恐る恐る訪ねると人魚は小さく唇を震わせながらも頷いた。その瞬間から人魚は浩樹にとって同じ世界に生きる存在になった。引き込まれるように彼女の手の甲に唇を添わせると、その細い指の間にはうっすらと透明な水かきがついていた。その薄い膜を浩樹は自分の舌で愛撫した。人魚である彼女は、微笑むことも官能も知っていた。

 加奈子は浩樹と久しぶりに長い時間を過ごしたことで、ますます不安に拍車がかかった。もちろん、いつものように優しかったけれど、どこかよそよそしく暗い影があった。何かを隠している。その気持ちが強くなっていた。

 もしかして私の他に誰かと付き合っているのでは、と思った。そして加奈子は不意打ちで彼の部屋を訪ねた。しかし何度ドアフォンを鳴らしても音沙汰がない。寝ているのだろうか。まさか居留守? ため息をつき諦めて帰ろうとして、何となくドアに触れるとそれはそのまま動き、開いた。鍵がかかっていなかったことに驚いた。加奈子はそのまま部屋の中に入った。

「……浩樹、いる? 寝てるの? 勝手に上がっちゃってごめんなさい。鍵が開いていたから」

 暗い部屋の中で加奈子は慎重に浩樹の姿を捜しながら歩いた。随分風通しがいい、と思ったところ窓も開いている。そこから風が入り込んでいたのだ。ふと、プールに気配があった。加奈子はプールに向かった。

「浩樹? そこにいるの? 大丈夫?」

 そう声をかけた加奈子は目の前で見た光景に息を吞んだ。そこには浩樹と見たことのない生きものがいた。

「なに……? それ……」

 浩樹は、はっとして振り返った。

「加奈子」

「どういうこと? それは、なに?」

 人魚は不思議そうに加奈子を見た。その目に加奈子は恐怖を感じた。

「このことは誰にも黙っててくれないか」

 浩樹は、ふらりと立って加奈子に言った。その浩樹の目すらも、以前と違って見えた。

「それ……人魚よね? 一体どこから?」

「以前、君と行った水族館だ」

「どうしてあなたの部屋にいるの?」

「恋をしたから連れてきた」

 加奈子は頭を振ってこめかみを押さえた。

「……待って。少し落ち着かせて。ねえ浩樹、私たち結婚するのよ。あなたは何を言って、何をやっているのかわかってるの?」

「結婚はできない」

「その人魚のせい?」

「ああ」

「嫌よ」

 加奈子は、その辺の物にぶつかりながら泣き顔を見せたくなくて浩樹に背を向けた。

「ごめん、加奈子。もう僕は以前の僕じゃないんだ」

 弘樹の言葉を背中で聞きながら、部屋を出た。

 

 加奈子は水族館に向かった。何をしに行くのか分からなかったが、とにかく向かった。

 閉館したばかりらしい水族館はざわついていた。至近距離までは近づけなかったが係員や医師や研究者のような人物が数人出入りしていた。加奈子はわざとらしいかな、と思ったが近づいて訊ねた。

「今日はもう閉館なんですか? お魚たちに会いに来たのですが」

「申し訳ありません。一週間ほど前から事情がありましてお休みをいただくことになりましてた」

「何かあったんですか? 私、こちらの水族館のお魚が見たくて、それだけで遠方から出向いて来たんです」

 加奈子の嘘の演技に従業員のひとりが信じて、こっそりと加奈子に話してくれた。もちろん内緒だと言う前提で。そこで加奈子は人魚の正体を知った。

 それはある日、突然起こった事故だった。

 最愛の恋人に振られた水族館の飼育係だった女性が、鮫のいる水槽に飛び込んで自殺を計ったのだ。彼女は鮫の空腹時をわざと狙い、自ら鮫に自分を襲わせた。彼女はすぐに引き上げられたが手遅れとなり、命を落とした。しかしその後、処分されそうになっていた鮫が妊娠していると判明し、子供には罪がないから、と出産させた。すると生まれて来たのはおとぎ話で見るような人魚そのものの姿をしていた。しかし決してファンタジーとは思わず、現実問題として飼育員たちにとっては奇形にしか思えなかった。それでも研究の一貫として世間には内密にして飼育していたが、人魚が育って行くうちに恐ろしいことに気づいた。それは、人間の姿をした上半身部分が生前の女性の姿形に酷似していたことだ。

 その人魚が浩樹の手によって盗まれたという訳だ。加奈子はなかなかこの出来事を消化できずにいたが、浩樹の目を覚まさなければ、と言うことだけは感じ取っていた。人魚が放つ強烈な目に見えない何かは人間を惑わせる力があると思ったからだ。現に加奈子もそうだった。あの不思議な色の瞳には生前の女性の魂を宿している気がしてならない。どうしたらいいのだろう。どうしたら浩樹をあの幻想的な誘惑から脱出させられるのだろう。人魚を水族館に戻したところで浩樹はきっとまた見つけ出し、用意周到に準備をして人魚を連れて来るだろう。これ以上の犯罪紛いの罪を犯してでも。そうすれば答えはひとつしかない。人魚は人間ではないのだ。加奈子はもう一度、浩樹の部屋に向かった。

 プールサイドで浩樹は人魚の頬に触れ、愛しそうに髪を撫でた。人魚も気持ち良さそうに目を閉じてうっとりしていた。

「君とひとつになりたい」

「私もよ」

 人魚は妖しく笑みを浮かべて浩樹の耳元に囁いた。

 加奈子が再び浩樹の部屋に着いた時、ドアフォンを押す前にドアを動かしてみた。先ほどと同じように鍵が開いたままだった。なぜ閉めないのだろうか。そう言えば窓も開けっ放しだった。浩樹は完全に現実から乖離している。だから物騒などと言う概念も薄れているのだ。加奈子はキッチンに入り、ナイフを探して取り出し、後ろ手に隠しながら息を潜めてプールに向かった。

 しかしそこで加奈子が目にしたもの、それは意識を失くしてぐったりと倒れ込んだ浩樹の姿だった。

 加奈子は悲鳴を上げて浩樹の許に駆け寄った。人魚は驚いた様子で加奈子の方を向いた。その唇からは血が一筋伝っていた。加奈子は浩樹の首の脈を押さえた。息があった。

「なにをしたの!? 浩樹になにをしたのよ!」

 人魚は鮫と人間のアイノコだ。最初はずっと浩樹が与えていた魚や肉を餌にしていたが水族館と違い、食料はあっという間に足りなくなった。そんな時、浩樹が言った「ひとつになりたい」という言葉は人魚の心を捉えた。加奈子が思っていた通り、人魚の心は自殺した女性の想いと共にあった。生前の女性は男に振られたことがきっかけで死を選んだ。恨みがあった。鮫の食欲と女性の復讐心がひとつになった時、浩樹は犠牲者になった。人魚は手の甲で血を拭うと加奈子の目を見据えた。

「こっちに来て。そんなに怖い顔をしないで」

 人魚が加奈子に話しかけた。

「話ができるのね」

 加奈子はふらふらと人魚の側に寄った。人魚は加奈子の頬に幾筋もの涙の跡を見つけた。

「あなたはこのひとの恋人なのね。あなたを泣かせたくなかった。泣かせるのなら、私が以前愛した男だけで良かったのに。傷つけてごめんなさい……」

 人魚の告白を聞き、加奈子は首を横に振った。人魚も哀しい経験をしてきたのだとわかった。人魚の頬にも涙が伝い、その涙は、人魚の想いが凝縮され、一瞬にしてその想いは加奈子の体中に流れ込んできた。加奈子は人魚に近づき、手にしていたナイフで人魚の心臓を一突きした。人魚は望んでいた。加奈子と言う自分の立場と同様に傷ついた人物に殺されることを。人魚は加奈子の震える手をナイフからそっと外させるとナイフをそのまま自らの手で掴み直して心臓に深く刺し込んだ。抜けてしまわないように。人魚は最期に加奈子に微笑み「これでいいの」とひとことだけ囁き、そのままプールの水の中にするりと溶けるように落ちた。

 浩樹が人魚の為に用意していたプールは、淡く照明が灯り、水も清潔に保たれていた。プールサイドの温度調節も完璧で、ほんのり暖かく、傍らには小さな家具が置かれ、その上には銀の手鏡、ブラシ、たくさんの花が飾られてあった。人魚が心地良く過ごせるようにと浩樹なりに工夫したのだろう。その優しいプールの中で一度、凄惨な死を経験した人魚は満足したように微笑んでゆっくりと底に沈んでいった。生まれ変わることなんて望んでいなかったのだから。

 加奈子は浩樹の許に行って体を揺さぶった。元気だった1か月前に比べて、げっそりと痩せていた。白いシャツが仄かに赤く染まっていたのは人魚に喉を噛まれたからだろう。しかし傷は浅かった。人魚も、もしかしたら浩樹のことを……。けれど、どちらにしても浩樹は彼女を水族館から盗んだ罪を背負い、警察だって動く。それが人魚などと言う伝説の生き物の姿だとわかれば世間に晒されるだけだろう。恋だったのかどうかは証明できないけれど誰もが傷つくのは想像に難くない。

「……加奈子」

「なに?」

「彼女は……逝ってしまったのか?」

 加奈子はただ頷いた。浩樹もまたわかっていた。

「ごめん」

 加奈子は無言で首を横に振った。

「夢を見ていたことにできないだろうか。彼女のことも、彼女への想いも……」

「都合が良すぎるわ」

 加奈子の言葉に浩樹は一瞬冷たい汗をかいた。

「忘れないであげましょう。せめて、あなたと私だけは」

 加奈子は憔悴した浩樹を抱き寄せた。力強くも優しい加奈子の抱擁に浩樹は涙を流し、抱きしめ返した。人魚の想いを忘れずにいることで供養しようと加奈子は決意し、その決意を浩樹と共有しながら、これからも浩樹と一緒に生きて行こうと心に誓う。

《 Fin 》

2004年10月25日

解説

この物語も大澤誉志幸さんの曲のタイトルから想起したものですが……今となってはどの曲だったのか思い出せないほど原曲からは離れています。

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