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常夏の休暇

by 幸坂かゆり

毎回、恋をするたびに思ってた。「終わり」はなんて、呆気ないのだろうと。

結婚生活も「終わり」が見えたら、すぐに壊れてしまうものだったなんて今まで知らなかった。私は甘かったのだろうか。

寧々が離婚してから今日で1年経つ。今更傷心旅行と言う訳ではないけれどリゾートホテルに来ていた。旅行先のホテルに着き、荷物を置いてベッドに腰掛けて窓を眺めるとやっと一息ついた。

気がつくとうとうとしていたが電話で起こされた。相手は元・夫の後輩、恭一だ。結婚している時、家にも時々遊びに来ていた。夫とは職場で知り合った。同い年で気が合い、結婚したが数年ももたなかった。恭一は寧々が離婚した後も様子を見に来てくれたり、手紙や電話のやりとりをしていたけれどそれだけの仲だ。それなのに旅行先に恭一を呼んでしまった。思わせぶりだろうか。寧々にも理由が分からなかった。

「恭一くん? 今どこ?」

「ええと、部屋の前です」

「なんだ、どうぞ」

寧々は恭一を招き入れた。

「久し振りです」

恭一は、少し緊張しているのか笑顔がうまく作れていなかった。寧々はそれに気づいていたがそのことには触れず、コーヒーを淹れた。その間、恭一の様子を盗み見してみると、ベッドに座ったり、窓辺に立ったり、部屋中をうろうろしていて可笑しかった。

「……大分、落ち着きましたか」

落ち着きのない恭一に問われて、寧々は苦笑した。

「別れ話の段階から落ち着いてたわよ。彼が例の彼女と結婚したことも知ってる」

離婚の直接の原因は夫が浮気したからだ。その浮気相手は一度、家に来たことがあった。

「……誰に?」

「お節介な同僚。恭一くんは何故そんな質問するの? やっぱり同情してるの?」

「違いますよ! 僕は寧々さんに会いたくて……!」

つい、出てしまった言葉のようだった。寧々がちらりと見ると恭一は真っ赤な顔をしていた。恭一は25歳。寧々は今年で40歳になる。どうしても年上ぶってしまう自分に呆れながらも、素直な反応を見せる恭一がたまらなく可愛く思えた。

「休みはいつまで?」

「1週間です」

「そう。私、何の予定も入れてないの。恭一くん、どこか行きたい所ある?」

「いや、別に。僕、寧々さんのボディーガードしますよ」

「やあね。堅いこと言って。海にでも行こうか、天気もいいし」

「そうですね」

恭一は波と追いかけっこをしている寧々の後ろ姿をじっと見つめた。

彼女はどうして僕を呼んだのだろう。淋しいのだろうか。でも、そんなこと聞けるはずがない。ただ普段の彼女とは服装や髪型が違う。それはただ、リゾート地に来たという理由からなのだろうか。恭一はあらゆる疑問を胸に抱えていたが怖くて聞けなかった。恭一は寧々に惚れているのだ。

「本当はね」

その寧々が振り返って叫んだ。

「え?」

「来るかどうか心配だったわ」

恭一は何て言っていいものか判らない。ただ咳払いをしてごまかしてしまった。寧々が砂を払いながら、砂浜に座る恭一の隣に座った。

「今更聞くけど、恭一くんって恋人いるの?」

「いませんよ。今は」

「いつまでいたの?」

「こないだ別れたばっかりです」

「……傷心なの?」

「いや、僕から切り出したんです。ずっと、忘れられない人がいるからって……」

「あ! 恭一くん、ちょっとよけて!」

波のいたずらのせいで渾身の告白のはずだったのに恭一が最後まで言い終わらないうちに寧々に腕を引っ張られた。しかし、寧々はそのまま恭一に抱きつく格好になったので、動揺して両手をどこに置いていいのか判らないままの恭一に寧々は言った。

「なかなかいい骨格してるのね」

その言葉に何となく気分を害した。

「なに怒ってるの?」

「怒ってないですよ」

寧々は、そっと恭一の背中に回した腕をほどいた。

「あたし、別にからかった訳じゃないのよ。本当にいいと思ったの。あたし達の骨格の相性。あたしの体、すっぽり包んでくれたじゃない」

ゆっくりと囁くように話す寧々に恭一は見とれた。その後、少しだけ海を散歩した。

「さっきはプライベートなこと聞いちゃってごめんね」

「え? いや、平気ですよ」

「遅くなるからそろそろ帰ろうか」

寧々は静かに言った。それでも並んで歩くと二人の指が触れたので、寧々は子供のように明るく手を繋いだ。明日、一緒に夕食を摂る約束をして互いの部屋に戻った。

部屋に戻って恭一がシャワーを浴びていると、携帯電話が鳴った。寧々からだった。

「明日、やっぱりもう少し早く会わない?」

「ええ。全然構わないですよ」

「じゃ、お昼前にそっちに行っていい?」

「え!?」

「だめ?」

「いえ、だめじゃないですけど……」

「じゃ、明日ね」

有無も言わさず、寧々は電話を切ってしまった。

次の日、確かに寧々は昼前にやってきた。「いい眺めね」なんて言いながらカーテンを思い切り開けたりして上機嫌だった。しかし寧々が来たのは朝だった。寝起きで歯を磨きながら、恭一はつい無愛想になってしまう。

「何よ。せっかく朝食一緒に食べようと思って来たのに」

さすがに惚れた弱味でそんな事言われると、かわいいと思ってしまうのだが。

「そうだ!目覚ましにシャンパン買って来て!」

「ええ?」

恭一は顔をざぶざぶ洗いながら面倒くさそうに返事した。

「つべこべ言わずに! 血行が良くなってシャキッとするわよ」

「……それは寧々さんが、でしょ」

「何か言った?」

「はいはい。買って来ますよ」

のろのろとTシャツとジーンズを着て恭一は部屋を出た。シャンパンの銘柄を寧々に聞いてホテルの向かいの酒屋で買い、すぐにエレベーターに乗った。一緒に乗り合わせたホテルの客らしき女性が「何階?」と聞いてきたので答えた。しかし、その狭い空間の中で女性はいきなり香水を吹き付けた。恭一にまで微粒子が飛んで来てむせそうになった。しかも強い香りだったので、がくん、とエレベーターが止まるたびに恭一は胸悪くなった。明らかに夜向けの香りだったので、心の中で毒づいたが、幸い自分の降りる階よりも早く降りたため、恭一は大きく息を吐いた。

「戻りましたー」

恭一が先ほどの香りのダメージから抜け切れないまま、部屋に着いた。

「お帰り! 早かったじゃない」

満面の笑みで走り寄り、シャンパンを受け取ろうとした寧々の手が止まった。

「どうしたんですか?」

「……その香水、ずっとつけてた?」

「うわ、匂います? 今エレベーターで一緒になった女の人が目の前でつけてて」

「シャワー浴びてきて」

「え? 何で? そんなに気になる?」

恭一が顔を上げて言った瞬間、寧々にバスタオルを投げつけられた。

「いいから! 今すぐに浴びてきて! その服脱いでよ! 他の何を着てもいいから!」

寧々は恭一をバスルームに押し込んで、外側からドアを押さえつけ、恭一を閉じ込めてしまった。

「寧々さん! どうしたんだよ!」

恭一はバスルームのドアを叩いたが、寧々が出してくれそうもなかったので、仕方なくシャワーを浴びた。何なんだよ。そう思いながら。バスルームの外では恭一が湯を出した音に寧々が一瞬、びくっと体を動かした。動揺した自分に驚いていた。あの香水は夫の彼女がつけていたものだった。

あの日、彼女は「別れて下さい」と寧々に言いに家に来た。寧々は逆上もせず、静かに聞いていた。それなのに彼女は泣き出した。「愛しているんです。彼も愛してるって言ってくれました」そんな彼女の言葉を耳の奥で寧々は聞いた。夫も謝罪してきた。慰謝料はいくらでも払うから、とも言った。その時、寧々は、何もいらないわ、と返した。そして彼女の方に向き直った。両思いなんでしょう? それなら泣くことないじゃない。何の涙? 同情? あたしがひとりになるから? その時、涙で湿度の上がった部屋にきつく鼻を突くような香水が香っていた。寧々の頭の中にあの日の光景がくっきりと浮かぶ。朝の陽射しが入る中で、自分だけが夜の暗闇に落ちていくようだった。

「寧々さん、大丈夫?」

気づくとシャワーの音が止んでいた。恭一はホテルのバスローブを羽織っていた。寧々は正気に返り、恭一に謝った。

「ごめんね。言わなきゃフェアじゃないね。あの香水、夫の彼女がつけてたの」

恭一は思わず寧々の顔を見た。寧々は床に座って俯いたまま、話を続けた。

「彼女、日に焼けて健康的な人だったわ。本当はああ言う女の子が彼のタイプだったのよ。あたしは彼に合わせてたから、本物には叶わないなあ、なんて思った。だけど、人の夫に平気で、愛してる、なんて言える女なのよ。そんな女を彼が好きだったって知ってその方がショックだった。話し合いを終えてから急に汚れた気がしてシャワーを浴びたの。だけどもっと汚くなった気がした。彼女の香水が部屋に充満していたから。彼と共有していた物すらそう感じられた。もうだめだと思ったわ。1年経って、もう平気だと思ってたのに……」

恭一は、言葉を必死で探した。

「……先輩は、寧々さんの態度が淡々としてて最後に顔も見てくれなかった、って言ってました」

「あたしが泣いたら彼は同情するでしょう。そんなの惨めだもの。我慢したわ」

「でも、そんなに傷ついてるのに……」

何だか急に寧々に恥ずかしさが襲ってきた。

「……あんた、モテるでしょ」

寧々は急に元気な声で問いただした。

「え? 何、急に」

「教えてよ、どうなの?」

「モテないよ……って言うか、知らないよ。言われないと」

「きっとモテるよ。あたしみたいな女に」

寧々は恭一の顔を見ようとしない。

「……寧々さんじゃないの?」

一瞬の沈黙があった。恭一が緊張して寧々を見ると彼女は急にくすりと笑った。

「なーんてね。何でもない会話ね。可笑しい」

寧々はくすくすと笑った。

その様子に恭一は気分を害した。本気で心配しているのに。

「……何なんだよ。やっぱりからかってるんだろう?」

少し強い口調だったのだろうか。寧々は途端にびくっとして笑うのをやめた。

「ちょっと風に当たってくる。寧々さんはいていいよ」

恭一は一人で部屋を出ようとした。しかし寧々は「待って!」と恭一を止める為に床から立ち上がった。恭一がドアを開け、今にも部屋を出る寸前に追いついた、が、急に立ち上がったせいか立ちくらみを起こしてその場にうずくまった。

「寧々さん!?」

「ごめん、貧血……大丈夫よ。こんなに早く起きたの珍しいから……。慣れないことするもんじゃないわね」

「わかったよ、いいから横になって。話は後にしよう。僕もいるから」

寧々は恭一の手も借りずにベッドに横になった。しかし、仰向けになり両腕で顔を隠した。

「見ないで。酷い顔をしてるわ。みっともないから」

その寧々の顔を上から恭一は眺めた。透けるような青白い肌をしていた。口ではいつも強がって達者なことばかり言っているのに、こんなにも細い。そんな寧々が痛々しかった。両腕で覆うように顔を伏せていたが耳元には、涙が次から次へと流れていた。寧々は声を殺して、泣いていた。恭一はその涙に気づかない振りをしてベッドにそっと腰掛けた。そのまま寧々は少し眠りについたようだった。

しばらくして寧々が目を覚ました。

「気分どう? 少しは楽になった?」

「……嫌だわ」

「え?」

「嫌いだわ、こんなの。すごく惨めになる。体は昔から弱かったけど頑張ったの。何とか体力をつけようと思って。でも、彼女を見た時すべてが無駄に思えた。私と正反対でアクティブな夫と堂々と渡り合える彼女が、本当は羨ましかった……。ごめんね。バカみたいでしょ、嫌になるわ。いい大人のくせに」

そこまで言うと、いよいよ涙が止まらなくなったのか、しゃくりあげた。

「寧々さんは、人を羨ましいなんて思わないでいいんだよ」

寧々は、そっと指の間から恭一を見た。

「そんなこと、思わなくたって」

恭一はそのまま寧々の細い体を抱きしめた。

「だって、僕はずっと」

寧々は泣くのをやめて恭一の声に聞き入っていた。

「僕、全然バカになんかしてないよ、寧々さんは無理矢理、自分を押さえつけてる。立場とかプライドとかで」

「……そうよ。ずたずたよ。あたしの泣き顔、勝手に見て」

寧々は恥ずかしさからか子供のように拗ねておかしな理屈を言う。

「うん。可愛かった」

恭一は、にっこり笑って寧々の顔を覗き込んだ。いよいよ、顔が真っ赤になった寧々は枕で恭一の頭を叩いた。その手をそっとどけて、恭一は改めて寧々を抱きしめた。

「だからさ、僕、寧々さんを諦めたくないんだ。僕は寧々さんを初めて見た時から好きだった。でもあの時は先輩の奥さんだったからもちろん言えなかった」

寧々は、突然正面から恭一の顔を見て話した。

「あたしもなの」

「え?」

「本当は夫といる時から少し感じてた。でも無視してたわ。だってあたしは人妻だったから。でも昨日、恭一くんと話してて……愛しく感じた。だけど、あなたのまっすぐな視線にも戸惑った。だからはぐらかしていたの。だって、あたしたち、やって行ける? ここは特別な場所よ、リゾート地だもの。きっと舞い上がってる。戻ったら日常生活よ。あんなに人の多い場所に戻って、うんざりする日常の中で、あたしたちはお互いだけを見て行けるのかな」

「寧々さん、不安なしの恋愛なんてできないよ」

「生意気ね……」

「寧々の方が生意気だ」

恭一は呼び捨てにして、ふくれっつらをする寧々の頬にキスをした。

寧々も堪忍した。そう。寧々はいつだって恭一の前では生意気な女の子になれるのだ。これからのことなんて考えてみたって判らない。恭一だって、寧々だって、これから先、他の人を好きになってしまうかも知れない。でも今は互いだけを見ている。それでいい。素直にそう思える自分が寧々は嬉しかった。愛を出し惜しみして後悔なんてしたくない。離婚が勉強になったとしたら、その部分かも知れない。

「あたし、今は恭一だけよ。恭一しか見えないって言っても過言じゃない!」

眩しいほどの笑顔で言う寧々に、恭一は嬉しさを堪え切れずに強く抱きしめた。寧々が小さく声を上げた。

「今、めちゃくちゃ幸せ! 僕、ずっと寧々だけにモテたかったんだ!」

二人はベッドの上を転がりながら抱き合った。

「やっぱり、いいな。恭一の骨格」

「寧々もいいよ。すごく柔らかくて、気持ちいい」

「もっとたくさん言って……」

寧々は恭一の耳に、甘く囁きを吹きこんだ。

恭一の腕に抱かれながら、寧々はそれでも少しだけ恋の痛みを引きずっていた。

それでも、古い恋が死んで、新しい恋に向かって行ける元気が寧々は自分の中で復活したことを全身で感じていた。寧々を縛り付けていた痛い恋がほどけて、新しい恋の糸が絡む。暑い風は、強い香水の香りをも消し去って行った。

《 Fin 》

2005年1月20日

解説

何と言うか、甘い。甘々しい。そんな言葉ないですが。

けれどこんなお話を書きたい時期もあったのです。今でこそ頑丈な体に成長してしまいましたが、寧々よりも少し年齢が下の頃、私は痩せていてすぐに貧血やら酸欠やら起こして周りに迷惑をかけていたと思う。その時の口惜しさだけは本物です。結婚はしたことがありません。はい(笑)でも痛い恋は経験したからこの物語も心の中のノンフィクションになることでしょう!

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