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鈴の音色

by 幸坂かゆり

 夜子は哀れだ。

 あたしはいつもそう思う。夜子はあたしの妹で、小さな頃に高熱を出してから時々、原因不明の放心状態になる。どの病院に行っても治らなくて、結局大人になった現在でもその症状が起こるため、外に仕事に行くことができず、リモートワークをしていた。家には父と母と夜子の3人で暮らしていて、あたしは嫁いでいたので時折遊びに来る程度だった。

 しかし、今日は違った。

夜子が放心状態になった時、場所が悪く、階段を下りている途中だったらしい。そのために足を滑らせ、ほとんど1番上の段から落ちてしまったのだ。最初は、夜子に何があってもすぐ周りに知らせることができるようにと、携帯電話を持たせたが、ぼんやりしてしまったらそんなものは役に立たなかった。だからいつも夜子が動くとわかるように鈴を持たされていた。猫のようだ。そんな妹を思うとやはり哀れに思う。

 そんな訳で、あたしは久しぶりに実家に来た。

 遠い訳でもないのに結婚してから数えるほどしか訪ねてきていない。呼び鈴を押すと母が出迎えてくれた。しばらく見ない内に急に老け込んだように見えた。きっと夜子の世話の心労のせいもあるのだろう。

「大変だったわね。夜子は大丈夫?」

「大丈夫よ。高村さんが一緒にいて下さるから」

 あたしは靴脱ぎに腰掛けて母を振り返った。

「タカムラって誰?」

「あら、話してなかった? 夜子が付き合ってる人」

「初めて聞いた」

 いつの間に。あんなに家にばかりいて、しかも人見知りの激しい夜子に何故。

「それで? 今どこ?」

「病院よ。もうすぐ帰ってくるわ」

「その人も一緒?」

「ええ。さっき電話があったの」

「なんだ。じゃ、あたしが来るまでもなかったわね」

「何言ってるの。久し振りなんだからゆっくりして行きなさい」

 母は少し強めにあたしの背中を叩いた。

「ありがと」

 あたしは母のそんな優しさが好きだった。夜子はこんな人の良い母に迷惑ばかりかけて。あの子はまだ子どもだ。あたしは誰にも聞かれないようにため息をついた。

 あたしたちが世間話をしていると玄関で音がした。

 男の人の声、そして、りんりんと鳴る鈴の音。

「お帰りなさい」

 母が気づいて、また迎えに行った。高村さん、という人に初めて会うのだ。何だか緊張してきた。振り返って二人を見た時、あたしはきっと不自然だったろう。

「どうも、初めまして。夜子の姉です。いつも夜子がお世話になって……」

 そこまで言うと、息が切れてしまった。

「お姉さんですか。初めまして。高村と申します」

 高村さんはきれいな男の人だった。しなやかに身長が高く、澄んだ目をしていた。夜子よりもあたしよりも、うんと年上に見えた。りん、と鈴が鳴った。

「夜子、久し振り。大変だったわね。大丈夫?」

「うん」

 久し振りに見る夜子はすっかり大人になり、最後に会った頃より髪も伸びて緩く波打ち、艶々していた。

「来てくれてありがとう。愛子ちゃんは元気だった?」

「まあまあかな」

 夜子は姉のあたしをいつもこうして名前で呼んでいた。幼い頃に母があたしをこう呼んでいたからだろう。

「愛子、家の人は事情を知ってるんでしょう?」

「もちろん」

 あたしは夫に「一週間は空ける」と言って出てきていた。

「良かった。夜子のこともそうだけど、こんなことでもないとあなた、滅多に顔を出さないでしょう」

「ごめんね。でもあたしだって忙しいんだもん」

 りん、と鈴の音がして、はっとする。

「やだ、別に嫌々来た訳じゃないからね。気にしないでよね」

 夜子は下を向いて微笑んだ。夜子の鈴は時として心の動揺を表した。自分で気づいているのか、いないのか。けれど優しそうな彼氏がいて父も母も平和だ。夜子は少し足を引きずっていてかわいそうだけれど、気が抜けてしまったのは事実だ。明日にでも帰ろうと思ったが、久しぶりに母と話もしたいし、主婦にも休みが必要だと思い、夫には内緒で予定通り一週間実家にいることにした。あたしは客間に泊めてもらうことになった。 それに高村さんとも話してみたかったし、なんて言ったら夜子は嫌がるだろうか。

 夜子が過去に連れてきた相手はみんな、あたしが奪っていた。それから夜子はあたしに恋人を紹介しなくなった。けれどよく考えて。男の方の気が変わったのよ。あたしのせいじゃないでしょう? 奪おうとして奪ってる訳じゃないのよ。あんたの恋人が勝手にあたしに好意を寄せるようになったのだから。そう思いながらも、何度、夜子の恋人だった男が夜子に謝る所を見てしまったことか。夜子もどこかで判っているのか、あたしを責めたりはしなかった。哀れな夜子。

 夫だけは違った。夜子を介して出会った訳ではなく、元々あたしが好きになって、夫もあたしを好きだった。そして何年か付き合った後、結婚した。きっと夜子も安心したに違いない。

 しかし驚いたのは高村さんもこの家に一緒に泊まるというのを聞いた時だ。夜子を支えるには彼くらい体力がないとだめだとは思うが、まさか父も母も反対しないとは。と、言うのも、それもそのはずで二人は婚約したらしいのだ。

「なんで教えてくれないのよ」

 夕食を終え、みんなで団欒している時にその話を聴かされて、何だか仲間外れにされたようであたしは憮然とした。

「怒らないでよ。そうね、うまくいくかわからなかったから……」

 小さな声で母は言った。あたしは首をすくめた。母もあたしと夜子の恋の事情を知っているのだ。それでもあたしは夜子のことが嫌いじゃない。もちろん、妹だからと言うのもあるけれど、可愛いと思っていた。実際、今日会ってみて更に美しさが増していた。いつも恥ずかしそうに俯いているけれど、きれいな二重瞼で瞳を伏せると、睫毛がまるで絹糸のように細くて長い影になって頬に伸びていた。真っ白な肌に黒い髪と薄紅の唇はとても映えた。あたしは夜子とは正反対だった。浅黒い肌で髪は面倒だからストレートにしているし、目も一重だ。けれど、表情が豊かだと自負していた。高村さんも他の男のように夜子の外見から惹かれたのだろうか。

 居間から少し離れた場所で、りんりん、と音がする。

 夜子が布団を敷いたり、細やかに動いているのがわかった。そして「無理しないでいいから」という優しい高村さんの声。あたしは母に頼んで二人を呼んでもらった。父はとっくに寝てしまったが、せっかく来たのだから、みんなで飲みたかった。高村さんも夜子もビールを飲んだ。母が軽くつまみを作り、あたしは煙草を吸った。

 そして、あたしは高村さんに色々質問をした。最初は何気ないこと、仕事とか家族構成とか、そして段々夜子との馴れ初めが聞きたくなった。

「街で」と、高村さんは言った。夜子が一人で出かけた時で、その時、放心した夜子を見かけた。高村さんが声をかけると腕の中に崩れ落ちたという。ドラマみたいだ。あたしはつい、自分と夫の出会いを思い出す。好きだったと言っても、そんなに身を焦がすような恋愛じゃなかったし、なんとなく気が合う。それだけだったから。

「部屋の中、暑いね」

 あたしはベランダの窓を開けて風を入れた。

 夜子があくびをしたので、今日の疲れもあるだろうから、と早々に寝室へ行った。高村さんは夜子に手を貸してそのまま部屋を出た。母も0時を回ると眠たがった。あたしは何だかつまらなくなって一人で新しいビールを開けた。そんな時、高村さんが戻ってきたので驚いて居ずまいを正した。

「夜ちゃん、すやすや寝てるよ。疲れたんだね」

「そうね。痛い所があるといつもの倍、疲れるわ」

 あたしは高村さんにもビールを勧めた。夜の風が優しい。あたしは独身時代に戻ったような錯覚に陥った。あたしは高村さんとお喋りを楽しんで、結局、朝方になってしまい、高村さんから「そろそろ寝ましょうか」と言われた。そうね、まだ6日もあるんだもの。あたしはまた心の中で独り言を言う。あたしは少し、はしゃぎ過ぎているのかも知れない。夜子に対して少しだけ残酷な考えが浮かんだ。だってとても気が合うんだもの。でも、あたしのせいじゃないでしょう?

 あたしはそんな思考をお酒のせいにして用意してくれた部屋に行った。パジャマに着替えて、布団にもぐりこむと隣の部屋から、りん、と音がした。夜子が寝返りでも打ったのだろう。

 その日から、あたしは夜中に高村さんと二人で話すのが楽しみになった。高村さんもよく笑い、あたしもビール片手に上機嫌だった。その度に、夜子に対して少しだけ罪悪感がない訳ではなかったが、たまにはいいじゃない、と正当化していた。部屋の中が暑くて二人でベランダで話していると、ふとしたことから互いの指が触れてしまった。あたしは柄にもなく赤くなり、高村さんは「すいません」と謝った。思った以上に高村さんはあたしの心を捉えていたらしく胸が高鳴った。困ったな。不倫なんてしたくないのに。どうしてあたしはこう言う人に出会ってしまうのだろう。

「謝らないで」と、あたしは言って高村さんにキスを求めた。

「だめですよ」

 高村さんは優しく曖昧に微笑んであたしを拒絶した。

「挨拶よ」

 あたしはもう一度、高村さんに向き直って肩に腕を回そうとした。

「酔ってるんですか?」

 思いの外、強く腕を放された。あたしは恥ずかしくなって「ごめんなさい。どうかしてるわね」と背を向けた。

「大丈夫ですか?」

「夫は構ってくれないし、おかしな気分になっていたかも。あたしたち、馴れ合いになっちゃったのね。夫はあたしを女として見てくれないの」

「君はとても魅力的だと思いますよ」

 高村さんはあたしの髪をそっと撫でた。そんなことをしてもキスはだめなの? そんなふうにあたしは目で訴えた。高村さんはベランダのカーテンをそっと閉めた。あたしは今度こそ大丈夫、と思い、もう一度腕を回した。キスは軽いものだった。それでも満足した。まだまだ、あたしも捨てたものじゃない。そう感じた。

 高村さんは「戻りましょうか」と言って、カーテンを開けた。

「先に行ってて。あたしはもう少し風を浴びるわ」

 気障な台詞だ。でもそんな台詞を使いたくなるほどあたしは達成感でいっぱいだった。あたしはその通り、しばらくベランダにいた。

 すると、後ろから、りん、と鈴の音が聞こえた。驚いて振り返ると、夜子が月灯りを弾き返すような蒼白い顔で立っていた。その幽霊のような井出達にあたしは心底驚いた。

「愛子ちゃん、眠れないの?」

「あ、ううん。もう寝ようと思ってたところ」

 夜子は、くすり、と笑った。

「何がおかしいの?」

「愛子ちゃん、相変わらずだなあ、と思って」

「何が?」

「キスしたからって高村さんの気持ちを掴んだとは言えないのよ」

 あたしは一瞬、ビールを落としそうになった。

「……見てたんだ」

「うん」

「どうして止めなかったの」

「キス以上はしないと思ってたから」

「随分、自信たっぷりね」

「自信があるのは愛子ちゃんの方でしょう」

 夜子の顔をよく見ると唇が小刻みに震えていた。

「夜子、ごめん。つい……」

 あたしは夜子の元に駆け寄って抱きしめた。

「離して」

 夜子の声は冷たかった。そして、次の瞬間、夜子とは思えないほどの力で、あたしを突き飛ばした。あたしは背中から転んだ。

「愛子ちゃん、嫉妬はもういい加減にして」

 痛みに呻きながら、あたしは答えた。

「嫉妬ですって?」

「そうよ。私はわかってるわ。愛子ちゃんは私の物がいつも欲しいんでしょう? なぜ愛子ちゃんが今の旦那さんと結婚したのかもわかってるわ。彼は最初から愛子ちゃんを見ていたからよ。いつも私の恋人を奪った理由はたったひとつだったんでしょう。私を見てる男の視線を、愛子ちゃんは欲しかったんでしょう」

 あたしは何も言えずにいた。

 確かに男たちはみんな最初は夜子を好きになった。そんなふうに男を瞬時に虜にする夜子の姿があたしは憎かった。あたしを好きになれば、あたしは夜子に勝てる、と心の中で思っていたのかもしれない。けれど、いや、だからこそ口惜しかった。

「だって、夜子が美人だから悪いのよ……」

 あたしは低く呻くように言った。

「続けたら? どうせすぐに終わらせるんでしょう」

 夜子は冷ややかに話す。だから何よ、そう言いたげだった。そう。夜子から男を奪った後、あたしはいとも簡単に男たちと別れた。もう満足したから、あなたたちはいらない。そんなふうに。

「これからもそうしたらいいじゃない。好きにしたらいいじゃない」

 りん、と夜子の鈴が鳴った。震えているようだ。

 姿の整いなんて、関係なくなるくらいあたしは夜子の男を奪っていた。数え切れないほどの数の恋の屍をあたしは作ってしまっていた。そして同時に、それほど夜子はたくさんの人間を虜にしていたことに気づいた。

 その時、母が部屋の奥から小走りで出てきた。

「あんたたち、いい加減にしなさい。どうして仲良くできないの!? 愛子も夜子もあたしにとっては可愛い娘なのよ。悲しいわ。そんな会話を聞いていると」

「……お母さんは、何とも思わないの」

「あんたたちが恋愛に関してぐちゃぐちゃやってたのは知ってるわよ。でもね。例え、夜子の可愛さがきっかけになってもそれを繋ぎ止めるものがなければ、誰だって去っていくのよ。それに、愛子は夜子の男の人と付き合っていたようだけど、結局、飽きた人形を放り出しているような関係しか作れていないんでしょう? もっと自分を好きになりなさい。愛しなさい。自分をごみのように扱うのはやめなさい。男の人たちなんて関係なくたって、あなたは大切にされる存在であることに変わりはないのよ」

 あたしも夜子も母の声で黙った。言い返す言葉なんかなかった。

 母はお見合いで父と一緒になった。けれど、そこから愛を育んできたのだと話してくれたことがあった。

「ちゃんとね。自分を愛して、そんなあなたたちだけを見てくれる人を大切にしなさい。夜子は高村さんを。愛子は旦那さんを」

 夜子は、頷いた。

「……でもお母さん。あたしは夫にもう女として見てもらってないのよ! あたしはまだ若いのに! まだまだこうして男を誘えるような事もできるのに……!」

 夜子は体が震えて、りんりん、と鈴が鳴っていた。

「もうやめなさい!」

 そう言うと母は力いっぱい、あたしを抱きしめた。次に夜子も同じように抱きしめた。

「私は二人を本当に愛してるのよ……」

 母の力強い声が心に響いて、どうしても響いて、あたしは涙が止まらなくなった。子どものように大声で泣き叫んだ。そんな中、夜子はダイニングの椅子に座って放心したようで鈴が床に転がった。さすがにあたしもその状態を見て驚いたが、母があたしの肩に手を置いて説明してくれた。

「心配しなくていいわよ。あの子がああなるのは安心した時なの。放心状態になる度に、ああ、またひとつの試練を乗り越えたんだな、と思ってるわ。」

「でも、放っておいていいの?」

「5分ほどで目が覚めるわ」

 母は、すべてをわかっていた。

 その時、寝ていなかったらしい高村さんが顔を出して、あたしと母に軽い挨拶をした後、夜子の体を横抱きにして寝室に向かった。

 そう言えば、街で知り合ったという夜子と高村さんのきっかけは、夜子が腕に倒れて来た時だと言っていた。夜子の放心という発作は無意識に高村さんの存在をわかっていたのだろうか。この人は、自分に安心をくれる人だと。愛し、愛することができる人だと。

 高村は部屋に戻り、夜子を布団に寝かせて耳元に流れていた涙を拭った。

「夜ちゃん」

 高村の声に夜子が反応した。

「挨拶、なんでしょう?」

「ごめん」

「わかってるから、いい。でももうしないで……悲しくなるから……」

 やがて、夜子は発作の疲れで眠りに落ち、すやすやと安定した寝息を立て始めた。高村は夜子の寝息が好きだった。自分を見た後、安心した顔で微笑んで、少しずつ眠りに落ちて、肩を緩やかに上下させる吐息はどんなものよりも大切だった。この寝息を狂わせてはいけない。高村は軽率だった自分の行動を猛省しながら、この日は用意された部屋に戻らずに夜子の寝顔をただ黙って見つめながら夜を明かした。

 愛子は眠れなかった。

 声を出さずに涙を流していた。夜子のことをずっと哀れだと思っていた。けれど、本当に哀れなのは、あたしだったのかもしれない。人の男を奪うことでしか喜びを味わえないあたしこそが。

「痛い所があるといつもの、倍、疲れるわ」

 あたしが夜子のことを高村さんに話した時の台詞だ。痛んでいたのは、あたしの方だったのかも知れない。急に酔いが回ったようで床にごろりと横になると、涙が溢れてきた。

 あたしは傷ついてる。それもずっと前から。夜子とあたしは傷つけ合って生きてきたのだ。もう、そんなことはしたくない。大好きな母が言うように、自分自身を愛することができるだろうか。

 隣室から夜子の鈴の音が聞こえた。昨日よりも先ほどよりも、その音は愛子の胸に優しく響いた。

《 Fin 》

2005年3月9日

解説

これは初期よりもかなり手直しをしました。読むに耐えなかったので。

一番違うのはクライマックスの母親の言葉です。自分が今この物語に出てくる母親と同年代ほどになり、愛子と夜子が娘だったら、と考えた時、その台詞は大きく変化していました。それから高村を最低な男に設定してしまったことは悔やまれますが彼が主人公ではない、ということで。はい(笑)この物語に出てくる愛子はこの後の私の作品にも一作登場しています。

想起した大澤誉志幸さんの曲は「I Loved you……」という哀愁たっぷりな曲です。「Good Night  Good Night」と繰り返すフレーズが印象的なバラードです。

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