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Long Distance Girl

by 幸坂かゆり

 雨の朝。窓に映る街の中はかすんでいた。

 僕はカーテンを閉じてベッドに転がり、ため息をつく。恋人と別れた痛手がまだ残っている、なんて言ったところでかっこつけにもならない。ひとつだけわかること。僕は最初から終わる恋だと判っていた。彼女がどう思っていたのかは知らない。嘘つきな恋愛だった。愛していた。けれど僕は嘘に疲れた。最後に見た彼女の泣き顔が瞳の奥に叩きつけられるように今でも浮かぶ。嘘をついてでも僕たちはつき合って行くべきだったのだろうか。生活と性格の不一致。愛しいまま僕たちは別れた。

 陳腐な感傷に浸っていると目を覚ますようにドアベルが鳴った。

 もそもそとドアに行き、ドアスコープを覗くと友人のエレナが立っていた。こんな名前だが、れっきとした日本人、いやハーフか、まあ何でもいい。微笑みを携えた彼女の姿は今の落ち込んだ自分には眩し過ぎて一瞬目がつぶされたようだった。僕は男でエレナは女だが二人の間に恋愛ごとは生まれない。何かが起こってもおかしくないほど親密な会話もするのに不思議ではある。まあ、そういう間柄もあるのだろう、と気に留めることもなかった。……そんなことより驚いたのはエレナの住んでいる場所は飛行機に乗らないと僕のいる東京にまで来られない距離だということだ。

「おはよう」

「いつ、こっちに?」

「今よ。着いたばかり。今日中には帰るの」

「今日中に?」

「そう。昨夜あなたの電話の声を聴いたらいても立ってもいられなくなったの」

「すごい行動力だ……」

「少し痩せたんじゃない?」

 エレナは僕の頬をさらりと撫でる。

「まあ、食欲はそんなにないからな」

「そう思って色々買ってきたの。もし良かったらお酒も。食べましょ。元気なんて出さなくたっていいから。そんなものはお腹一杯食べてから」

 エレナには昨夜、確かに電話で連絡をとった。

 しかし互いに仕事の現状や噂話など他愛のない会話だった。まさか来るなんて。声色ひとつの判断で、しかも飛行機で、日帰りで。けれど僕は無意識の内に話を聴いて欲しくて、せがむような言葉を返してしまったのかも知れない。それがエレナには伝わってしまったのだろうか。それですぐにこうして来てくれたという訳だ。

「どちらからさよならを言ったの?」

 思わず僕の動きが硬くなった。

「僕から切り出した」

 エレナは頷いてテーブルの上のものを脇に追いやり、大量に買ってきた食料を大きな袋から出し始めた。中には食べ物じゃないモノもあるようだ。

「いきなり黒魔術なんて始めないから安心して」

 そう言ってエレナは微笑みながら電池式のキャンドルを取り出し、白い円柱の笠を被せると本物のろうそくの炎がすりガラスの中で揺れているように見えた。それが何本かあり、テーブルの上に間隔を置いて並べる。昼間だったがその灯りだけにして、カーテンを閉めた。

「この方が話しやすいわ。照明は雰囲気を変えるでしょう? でも少し淋しいかしら?」

「平気だよ。ぐずついた空を眺めているよりこの方がいい。おかげで少し食欲が出てきたな」

 僕は逸らすように言った。今すぐ食べられるサンドイッチやおにぎりといった手軽な物や僕の今後を考えてのことなのか様々なレトルト食品に缶詰めや瓶詰めも出てきた。アンチョビにオリーブ、チーズにワイン、ピクルス、もとい漬物、調味料なども入っていてエレナがマジシャンに思えた。

「わたし、一度会ったことあるわよね。髪の短い純朴そうな女の子だったはず」

「その通り」

 僕とエレナはピクニックのように床に食べ物を広げ、口に入れながら話をした。

「わたしの勘として物事を聞いて欲しいわ。真剣でなくていいから」

「うん」

「彼女、随分色んな人に気を遣っていた印象があるけれど、それはあなた絡みの人ばかりで、その他の人に対しては割と冷たいような態度が目立ったわ。彼女自身はとっても傷つきやすい可愛い人だったけれど、そんな面を見ているから複雑な性質を持っているようにも見えた。あなた、大変だったんじゃないかしら。あの子の笑顔が見たいからと、あの子が喜んでくれそうなことばかり選んでいて、ふと我に返って俯瞰で自分の姿を鏡で見たら、とんでもないファンシー野郎になっていたかもよ」

 真面目に言ったくせにエレナは想像したのだろう。顔を横に向けて吹き出した。しかし僕自身も実に似合わない自分の姿を思い浮かべ、苦笑いをした。

「うーん。それは勘弁して欲しいな……」

「でしょう?」

 僕は愛し方を間違えたのだろうか。愛する人を間違えたのだろうか。相手のすることに、いつからか自分が巻き込まれているようで我慢ができなくなった、というのが正直な意見だ。僕は僕でしかない。

「ん? 何考え込んでるの?」

 生ハムをグリッシーニに手際良く巻きながらエレナが問う。

「……エレナは純粋って何だと思う?」

「純粋? うーん。普段あまり日常的には使わない言葉ね。純粋なバターとか新鮮なイメージがあるわ」

「人間では?」

「悪い意味で考えたら少し世間知らずな感じ。良い意味で考えたら不器用でも真っすぐな印象。でもどちらにしても本人も気づかない内に人を振り回していそうで怖いかな」

「よく見ているね。正直に感心する。僕が一番、彼女に振り回されていたのかも知れない。でも結局、最後に一番傷つけてしまったということばかり頭を離れない。確かに疲れてしまったのもあるけどね」

 エレナは、立てた両膝に頬杖をついて上目遣いで僕を見た。

「それは、あなたから別れを切り出したからという負い目のようなものもあるんじゃないかしら。元に戻ろうとは思わないんでしょう?」

「……ああ」

「言葉の通りだと思う。疲れちゃったのよ。今のあなたは休暇を取るべきだと思うわ」

「僕もそう思う」

「じゃ、食べて。おいしいわよ、これ」

 エレナは食べかけのグリッシーニを差し出した。それを受け取り、かぶりつくと香ばしい味が口の中に広がった。

「どんな組み合わせでも永遠なんてないわ」

「僕と君もか?」

「そうよ。いつ恋が生まれるかわからないわよ」

「目が笑ってる」

 エレナは豪快に笑った。同志だ。

「ところで君の恋愛はどうなんだい?」

「悪いけど、とってもうまく行ってるの」

「ほう」

「いつも I miss you って気持ちを大切にしてるわ。離れていても抱きしめ合ってる。セックスの相性も抜群」

「それはそれは」

 あけすけな言葉。思わず苦笑するがエレナのおかげで心がしゃきっとした気がする。

「あなたも判っていると思うけどいつかはきっと忘れるわ。その時に悔やんだりしないように……。彼女に気を使い過ぎないで」

 思わず、黙る。

「あなたのことだから、もしも彼女から連絡が来たら会うでしょう? 会わないとしても話は聞くと思う。そしてもしも泣き出して謝ってきたら元の鞘に戻る可能性もあるでしょう? それは同情よ。一番してはいけないことよ」

「そうだな」

「そう。ますます彼女の傷口を広げるばかりか、あなた自身をも傷つけるわ」

 強烈に喉が乾いた。ミネラルウォーターの蓋を捻り、キャップを開けてそのまま半分ほど一気に飲んだ。

「あなたは優し過ぎる。それが一番残酷なんだから」

「難しいな。優しい男が好きだと女は言う。優し過ぎると残酷だなんて言う。一体どうしたらいいんだ」

「自分を同じ立場に置いてみれば考え付くんじゃないかしら」

 僕はエレナの言葉に少し気分を害した。多分、図星だからだろう。老若男女問わず何事も過ぎるのはいけない。知っていたはずなのに。

「恋は人を愚かにさせてしまうのかな」

「愚かになるとは思わない……。ただ、心の警報を麻痺させるわよね。時折冷静な判断ができなくなる。わたしにも過去の傷くらいあるから少しはわかるつもりよ。その傷を抱えているからこそ繰り返したくないと思うわ。怖いから。できる限り味わって欲しくない。特に大事な友達には」

 そう言うと、エレナはまた僕の頬を包むように触れた。張りのある手。僕はそのまましばらく目を閉じた。そう言えば、と考える。別れた恋人は僕に対しては純粋になる人だった。エレナは他人を純粋にさせる人だ。だからどうと言う訳ではないけれどそこがふたりの女のとても大きな違いだと思う。ずっと彼女と別れてから僕の眠りは浅かったような気がする。けれどエレナの腕の中で不意に赤ん坊のような気分になった。

 気づくと外が暗くなっていた。カーテンのせいじゃない。しかもエレナの膝をずっと借りて眠っていたらしい。僕は慌てて起き上がった。

「あら、今起こそうと思っていたのよ」

「ごめん! 飛行機の時間は?」

「平気。二十一時よ。そろそろおいとまするわ」

「送るよ。僕は酒を飲んでないから車で行こう」

「ありがと」

 上着を持って部屋を出ようとした時、エレナが言った。

「わたし、来て良かった? お節介じゃなかった?」

 今度は僕がエレナを子どものように思い、抱きしめたくなった。そしてできる限りの感謝を込めてエレナに言う。

「絶対にお節介だなんて思わない。エレナがいてくれたから僕は久々にゆったりできたんだ」

「そう言ってもらえて嬉しいわ。ありがと」

「僕こそ、ありがとう」

 僕とエレナは車に乗り込み、空港へ向かった。羽田空港に向かう道は彼女との日々を思い出させ、一瞬胸が痛くなった。エレナは隣で沈黙していたが僕の痛みはむき出しに映っていただろう。

 搭乗手続きを終えたエレナとしばらく壁によりかかってたわいのない話をしていた。不意にエレナは話と無関係な言葉を投げかけてきた。辛いのはこれからね。胸に重く刺さる言葉。何故急にそんな事を言うのか考えあぐねていると、突然視界が遮られた。エレナが僕の唇にキスをしてきた。正確には唇に近い位置に。甘い香りが圧倒した。その唇は小さく音を立ててすぐに離れた。挨拶のようなキスだった。驚いて目をぱちぱちさせる僕にエレナは明るく笑う。

「はい。1ポイントです」

「どういう意味だ?」

「辛くなったらその時にこのキスを思い出して」

「ポイントのキスを?」

「そうよ。色んな香りがしたでしょう? アンバー、ムスク、ジャスミン、バニラ……。香りの記憶は雄弁だわ。わたしは色んな香りを使うから特にうるさいと思う。でもあなたが彼女の思い出の痛さと一緒にこうやってやかましいうんざりするようなどうでもいいことも思い出せるように。より多くの香りのポイントを集めて。香りを思い出と共に蘇らせるのは幸せへの近道よ」

 僕は瞬時に言葉を返せなかった。エレナは一瞬だけ睫毛を伏せるとすぐにバッグを持ち直し、姿勢を正した。

「それじゃ、行くわ。またね」

「ひとつ聞かせてくれ」

「なに?」

「僕が女でも君はさっきみたいにキスをした?」

 エレナはほんのり余裕を持って微笑んだ。

「もちろんよ」

 その返事に僕も微笑む。エレナは僕を一瞥したあと、搭乗ゲートに向かった。その歩き方は見事でショーモデルのランウェイのように真っすぐで美しかった。

「気をつけて」

 ありきたりな見送りの言葉を投げる。エレナは肩越しに振り返り、おどけたようにフランス語のような返事をした。ついでに形の良い唇をすぼめて投げキッスも。エレナの栗色の長い髪が揺れると雑踏の中に眩しい金粉を撒き散らしているように見えた。

《 Fin 》

2006年頃

解説

大澤誉志幸さんの「彼女の向こう側」という曲のタイトルを拝借しました。物語はほぼ無関係になってしまいましたが、この曲の雰囲気も、歌詞も、ドラマティックな展開のメロディーもとても好きで、敢えて近づけることがためらわれたのを憶えています。

なぜか動画サイトなのに動画も画像もないままアップされていたものをお借りします。かっこいい曲です。

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