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Private Heaven(後編)

by 幸坂かゆり

次の日の朝。

ナナが最初に見たものは至近距離の彼の顔だった。案の定、目を丸くしてタオルケットで顔を隠した。

「悪趣味! 寝顔を覗きこむなんて!」

「よく寝てるなあ、と思ってさ」

ナナは枕で彼を叩いた。所詮、羽枕で軽いのだが。彼は叩かれながら楽しそうに笑った。

ふたりは朝食の後に、澄んだ空気を吸いに海に出た。

「日本の海と全然違う」

そう言ってナナは仁王立ちになって伸びをした。昨夜ここに着いたとは思えないほどナナはこの地になじんでいる。彼はそんなナナの姿を見て眩しそうに微笑む。そんな彼を振り返り、唐突にナナは質問した。

「ねえ、笑ってた?」

「え?」

「私といた時、あなたいつもそうやって笑ってた。その笑顔大好きだわ。ずっとそうやって、笑ってた?」

彼は波を見つめて黙った。

「いや、笑えなくなってた」

「何年も?」

「何年もかけて、笑えなくなってた」

「話せる?」

「座ろうか」

ふたりは砂浜に座った。

「日本を離れて、君を呼ぼうと思った」

ナナは大きな瞳を彼に向ける。

「君に電話した」

「来なかったわ」

「続きがある」

ナナは一瞬、感情的になりそうだったが、すぐに聞く姿勢を整えた。

「君の電話番号、住所、家にいる時間帯……。すべてを隠されて、嘘をつかれた。君はもう別の男と結婚して既に転居して、そこにはいない、と。それでも会うくらい、と言ったが君は既に妊娠していてナーバスになっているからやめた方がいい、と」

思わずナナは立ち上がった。顔が赤くなった。結婚? ううん。妊娠ですって?

「嘘だと判ったのは、ついこの間だ。偶然飲んだくれてたバーでその時仕事をしたヤツと偶然会った。何か聞き出せないかと思って思案した。ヤツは随分酔っ払ってて俺に気づいていないようだった。俺はバーのマスターとは気心が知れていたから、さりげなくヤツの前で俺の名前を出してもらった。俺は顔を伏せてた」

ナナの髪が風に煽られ、口の中に飛び込んで来たがすぐに頭を振って払いのけた。

「ぺらぺらと、よくあんなに出まかせが言えるもんだって感心したくらいだ。……冗談にならなかったけどな。君と引き離して、当時売り出そうとしていたタレントと俺が交際するように仕向けていたそうだ。けれど生憎、その子が違う男との間に子供ができたらしい。俺と何の接点も持たないうちに。すべての計画が水の泡になったそうだ。その後、俺のフォローなんて一切ない。君と引き裂かれたままで10年近く経ってた。走馬灯みたいに数年間が蘇ったよ。ヤツの手柄なんかどうでもいい話だが、俺とナナの人生を巻き込んだ事が許せなかった」

そこまで話を聞いていたナナは突然、驚くほどの力で彼の手を取って言った。

「ボコボコにした!?」

彼は目を瞬かせた。ナナの顔は真剣そのものだった。しかしその台詞を聞くと、つい笑いがこみ上げて来てしまった。

「なんで笑うのよ! 大事なとこだわ!」

彼は思わずナナを抱きしめる。ナナは小さく悲鳴を上げた。

「そうだ。君はそういう人だから会ったら一発で奴らの嘘なんて見抜けたはずなのに。俺に隙があったんだ。そんなバカげたことでこんなに時間がかかってしまった。やっと君を探そうとしたら……、探さなくったって良かった。君の家は、あの頃のままそこにあって、君はそこに住んでいた」

ナナの首筋に暖かな吐息が吹きかかる。

「それで、航空券……」

「うん」

「あなた自身の名前も何も書かずに」

「もしも、と思うと怖かった。君が来てくれて心の底から感謝してる。君の言いたかったことも何もかもすべて聴くよ。話してくれ」

ナナは風に髪を乱されながら、少しの間考えた。

「ない」

「まさか」

「本当よ。疑り深いわね。今あなたに会えてる。それが嬉しい」

そう言ってナナが彼に向かって微笑むと、ふたりはごく自然に唇を触れ合わせた。キスが温度を増しそうになった時、ぽつり、と雨粒が落ちてきた。

「スコールだ! ナナ、走るぞ!」

「え? え?」

ナナは初めての経験に驚くしかなかったが、雨は突然強くなった。

葉影に身を潜めて、ナナは雨を見た。

「これが、スコールか!」

ナナは腕を伸ばして雨を触った。

「すごい! 痛いくらい! ね、飲めるのかな? きれいな空気の場所って水もきれいよね」

「おいおい」

「シャンプーがあったら髪を洗える!」

ついに堪え切れなくなった彼は大笑いした。

「なによ」

彼は少しふくれっ面をするナナの濡れた髪をかき上げて、もういちどくちづけた。ナナも彼の体を抱きしめてくちづけに応えた。激しいスコールの中では何もかもがヴェールに包まれているようだった。

間もなくスコールが止み、ふたりはホテルに戻り、シャワーを浴びて濡れた服を着替えた。ナナは不思議そうにからりと晴れた空を窓から眺めていた。

「そんなに不思議?」

「不思議よ。だってあんな豪雨だったのに、こんなにきれいに晴れるんだもの」

彼も思わず空を見た。彼はしょっちゅうグアムに来ていた。それこそ骨休めをしたい時などに。けれど、こんなにゆったりと景色を楽しんだ事はないような気がする。いつも心の片隅に置き去りにした愛がちくちくと体を刺していたのだ。

「ナナは何月生まれだっけ?」

「5月」

「過ぎちゃったか。誕生石ってなに?」

「知らない」

「普通、女の子って知ってない?」

「興味ないんだもの。好きな石はただ好きなだけ」

「じゃ、平気かな」

彼はベッドサイドから可愛らしく梱包された箱を取り出した。ナナに開けてもらい、中を見るとネックレスだった。ホワイトゴールドのトップにダイヤモンドが埋め込まれたデザインで表面は滑らかだった。

「きれい……」

「こういう時は指環かなって思ったけど、やっぱり年数を考えると怖かった。君を縛るような気もして。だからネックレスにしたんだ」

「え? もらっていいの?」

この場に相応しくない返事だ。彼はナナの手から受け取り、ナナの首筋に腕を回してネックレスを彼女につけた。ナナの細い首に美しく調和してよく似合う。

「ナナ、結婚しよう」

彼の言葉にナナは驚きを隠せない。

けれど、何故とか、今更とか、何年も離れていたのに、なんて、そんな質問は口にできない。

「……うん。結婚しよう」

ナナはそう返事をした。

「良かった」

彼は倒れこむようにナナを抱きしめた。緊張が解けたせいか彼の体は今までに感じた事がないほど重かった。彼はナナを抱きしめて泣いていた。ナナの肩に温かい涙が幾筋も流れた。そんな彼の姿にナナはただ髪を撫で、時折、口唇で顔の涙を拭った。ひとしきり抱き合った後、照れて微笑み合った。

昼食は海の側のレストランで、たっぷり時間をかけて楽しんだ。何もかも知らないうちは、どこか疑念があり、わざと人の多い場所を選んだが、何もかも知った今となっては静かな場所でも構わなかった。少しだけ酔いたくて大きなグラスに入った酒も注文した。透明なグラスには鮮やかな花が挿してあり、テーブルに光が揺れて映り、ハニートーストにかける蜂蜜の小瓶の輝きと溶け合っていた。

「ナナ、夜に海を散歩しに行こうか」

「うん、行きたい」

ナナは口唇に食事のソースをつけたまま顔一杯に笑った。彼はそのソースを指ですくって舐めた。何よりも美味だ。アルコールはふたりの頬をほんのり染め、昼間の時間を彩ってくれた。

夜、

ふたりで歩く浜辺の空には細い細い、猫の爪のような三日月が浮かび、星が沢山、瞬いていた。

「きれい。見て。ふわふわになって海に浮かんでる」

「うん」

「ねえ、月の色が昼間の蜂蜜に似てる」

「そう言えば、あのガラスの瓶ずっと見てたな」

「きれいだったから。光があたっていて」

「ネックレスより夢中になってたぜ」

「やだ、一緒にしないでよ。きれいなものはきれいなんだから」

そう言ってナナはネックレスの鎖を鎖骨ごといとしそうに撫でる。

いつも、本気でムキになるナナを彼は心から愛しいと思う。昼間、蜂蜜の小瓶は太陽の光を受けて美しく輝いていた。ナナはダイヤモンドよりも蜂蜜の入ったガラス瓶に感動してしまうひとだ。ナナがそんな女性だったことを今更ながらに彼は思う。自分の話を聞いてくれた時も真剣だった。自分たちを陥れようとした相手がもしもそばにいたら、ナナの方が彼より早くヤツをぶん殴ったことだろう。そんなことで彼女の手を汚さなくて本当に良かったと思う。

どちらからともなく手を取り、ふたりの指が絡み合う。子どもがおもちゃで遊ぶように。波の音だけが耳に聞こえる。随分と時間が経過していた。

「眠くない?」

ナナが問いかけた。

「ん? 全然。眠くなった?」

「ううん、ただもう遅い時間だから」

「……俺は君に会えなくなってから、ずっと眠っていたような気がする。目覚めたって意味がないと思っていたから。だから目覚めてる今が貴重なんだ。眠りたくない」

ナナは駄々をこねるような彼の言葉をからかわずに微笑んで言った。

「ふたりで眠ろう、これからは。眠るって大事よね。嫌な事を忘れさせてくれるんだもの」

猫のようにまっすぐな瞳でナナが言うので、この島に着いたばかりの時のナナのように、今度は彼の方が言葉にならない。そしてつい、彼はまた今までの事を謝りそうになってしまう。けれどそんな時決まってナナは彼の口唇を指でふさぎ、怒ったように首を横に振る。

遅くなかった。

彼は今在るすべてに感謝したい気持ちで一杯になり、泣き出しそうになって、ナナの胸許に顔を埋めた。心を柔らかくしよう。この月に誓う。この楽園で。

<Fin>

初出 2004-05-03

改訂版 2004-09-05

追加改訂版 2020-08-09

あとがき

2004年に書いた「六月の楽園」という掌編を思い切り改変して掲載しました。この物語は1998年に発表された大澤誉志幸さんのアルバム「Love Life」から「Private Heaven」という一曲をイメージして書きました。2004年書いた当初、割とはっきりとしたエピソードを入れておりましたが、読み直して余計だと感じ、ひたすら滑らかに猫の歩き方のようにスムースにしたくて(笑)エピソードらしいものはなるべくなくしました。本来は一本に纏めたかったのですがg.o.a.tさん側で長編は書けないようなので前後編に分けました。この物語を読んだあと、この曲がエンドロールで流れてくれたら本当に幸せだな、と思います。

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